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更新日:2019年2月27日

戦国福島の関ヶ原 松川の合戦

松川の合戦は、豊臣方の上杉氏と徳川方の伊達氏が福島の松川を挟(はさ)んで、慶長5(1600)年に争った戦いのことです。
天正15(1587)年、島津(しまづ)氏を倒して九州を平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、関東・東北の大名に対して、今後の戦争は私的な紛争であるとして禁止する惣無事令(そうぶじれい)を出しました。
天正18(1590)年、秀吉は、天下統一の最後の戦いとなる小田原(おだわら)城に北条(ほうじょう)氏を攻めました。この時秀吉は、大名たちに小田原に来ることを命じますが、伊達政宗(だてまさむね)は遅れて到着し、摺上原の戦いが惣無事令違反に問われ、会津に帰ると早々に、会津黒川を明け渡し、米沢城に戻りました。
小田原城を落とした秀吉は、この年8月に白河から勢至堂峠(せいしどうとうげ)を越え、会津に入り、天下統一の総仕上げである奥羽仕置(おううしおき)(東北の大名の処分と配置替え)をおこないました。この結果、会津に蒲生氏郷(がもううじさと)が92万石で入りました。秀吉は、この時会津の地で、どんな山奥でも、離島でも徹底して検地を行うように命じる太閤検地令(たいこうけんちれい)を出しました。
翌年、宮城県北部で葛西(かさい)・大崎一揆(おおさきいっき)が起きると、秀吉は奥羽再仕置をおこない、政宗は米沢から岩出山(いわでやま)に移りました。この時、信達地方は蒲生氏の支配に入りました。
慶長5(1600)年5月、徳川家康は諸大名に会津(上杉景勝(うえすぎかげかつ))攻めの命を発し、7月21日に江戸城を発ちましたが、途中で石田三成挙兵の報により西に向かうことにしました。
家康は上杉軍を牽制(けんせい)するため、政宗にその任を命じ、政宗に現在の領地(約58万石)に加え、刈田(宮城県白石市周辺)・伊達・信夫・二本松・塩松(伊達郡東部)・田村・長井(山形県米沢市周辺)計7ヶ所、49万5800石を与えることを約束しました。これが実現すれば、伊達市の領地は百万石を超えることになるので、これを「百万石の御墨付(おすみつき)」といいます。
9月15日の関ヶ原の戦い(東軍(徳川家康方)7万6000余騎対西軍(石田三成方)9万3700余騎)は、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りにより東軍が勝利しました。
政宗は、景勝を自力で討(う)ち、「百万石の御墨付」(伊達氏の故郷伊達郡や政宗の旧領地の奪還(だっかん)を意味)を確実にしようと、10月5日に北目(きため)城(仙台市)を出発、信達へ進撃しました。
一方上杉方は、福島城に本庄繁長(ほんじょうしげなが)、梁川城に須田長義(すだながよし)を配置し、伊達氏の侵攻に備えていました。「信達一統志」によれば、当時、松川は信夫山の南側を流れていたとされ、福島城下に進んだ伊達勢は、信夫山の黒沼神社付近に陣を設け、松川を挟んで福島城の本庄繁長と対峙(たいじ)しようとしました。しかし、梁川城の須田長義が伊達勢を背後から攻め、小荷駄方(こにだかた)(武器や食糧の運搬隊)を襲って勝利しました。混乱した伊達勢は本陣の帷幕(いばく)を奪われ、敗走しました。
戦後「百万石の御墨付」は反故(ほご)となり、約束の地で伊達領となったのは、刈田のみでした。

伊達政宗(だて まさむね)

幼名梵天丸、米沢城主輝宗の長男。天正13(1585)年、畠山氏との戦いで父輝宗を失った。その後会津蘆名氏を滅ぼし、小田原攻めに遅参したため、奥羽仕置で米沢から玉造郡岩出山に移りました。慶長5(1600)年福島に侵攻し、慶長8(1603)年仙台に移り城下町を建設し仙台藩の基礎を作り、支倉常長を遣欧使節としてローマ教皇のもとに派遣したことも有名です。

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