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更新日:2022年5月25日

名誉市民第一号 古関裕而氏

プロフィール

古関裕而氏の写真古関裕而(本名:勇治)氏は、明治42年8月11日に福島市大町で生まれ、昭和5年に日本コロムビア株式会社に専属作曲家として入社、以来、作曲活動を継続し、戦前においては「暁に祈る」「露営の歌」などの歴史的作品を残したほか、戦後の荒廃した社会の中にあっては「雨のオランダ坂」「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「とんがり帽子」など未来へ希望を抱かせる明るい歌謡作品を発表し、多くの人々に愛唱されました。
さらに、昭和22年以降は放送作品に力をそそぎ、菊田一夫氏とコンビでNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」「君の名は」などの主題歌を発表し一世を風靡したことはあまりにも有名です。
また、昭和23年には全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を、昭和39年の東京オリンピックでは「オリンピック・マーチ」を作曲しました。
福島市に関係する主な作品としては、「福島夜曲」「ふくしま小唄」「わらじ音頭」をはじめ、小中学校の校歌等もあり、子供から大人まで幅広い世代に愛唱されています。
このほか、映画・演劇・スポーツなど、幅の広い作曲活動をしており、作曲作品総数は5,000曲にもおよぶといわれています。
こうした一連の功績によって昭和44年には紫綬褒章を、昭和54年には勲三等瑞宝章を受章しました。
また、昭和54年4月には、福島市名誉市民第一号となり、その功績と栄誉をたたえられています。

功績

日本歌謡史に残る不滅のメロディ

昭和歌謡史に大きな足跡を残した古関メロディ。その出発は新民謡といわれる叙情性に富んだ作品でした。
デビューレコードとなった「福島行進曲」(B面「福島夜曲(セレナーデ)」)、初の大ヒットとなった「船頭可愛や」など、日本人の琴線に触れる優れた歌が次々と発表されていきました。戦争の足音が聞こえると、古関メロディは戦時歌謡、国民歌謡として、「露営の歌」「愛国の花」などの力強くも哀調を帯びたメロディが多くの人々を勇気づけました。戦後には、「とんがり帽子」「夢淡き東京」「君の名は」「長崎の鐘」など、未来に希望を抱かせる作品を発表。
激動の『昭和の旋律』ともなった古関メロディは、人々の心を動かし、生きる糧とし、そして今なお多くの人々の心に生き続けています。

栄光のスポーツ音楽

古関メロディの特徴の一つに、スポーツ音楽に表現される清潔感があげられます。
昭和6年、早稲田大学第六応援歌として作られた「紺碧の空」は、現在では第一応援歌として今もなお親しまれています。また、慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」、プロ野球の読売巨人軍の「闘魂込めて」、阪神タイガースの「六甲おろし」など、ライバル同士の応援歌が古関メロディであることも面白い特徴といえましょう。
毎年夏の風物詩である全国高等学校野球選手権大会の大会歌として有名な「栄冠は君に輝く」や国民体育大会歌などを手掛けるなど、『誰でもが歌える健全な歌』をモットーに、庶民的でありながらも気品をそなえた古関メロディは、スポーツの祭典に欠かすことのできないものとなりました。
その頂点を極めたのが、昭和39年の東京五輪のために作曲された「オリンピック・マーチ」でした。

放送・演劇・映画音楽

『私の音楽に対する最大の理解者』
古関裕而氏が、自身と約36年間にわたりコンビを組んだ菊田一夫氏を称した言葉です。
昭和12年に出会った二人は、戦中・戦後を通し、おしどり夫婦のような名コンビとして、放送界・演劇界に大きな足跡を残しました。
戦後の混乱の残る時代に始まったNHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」や、福島市の茂庭地区を舞台とした「さくらんぼ大将」、ラジオドラマはじまって以来の大ヒットとなった「君の名は」などの主題歌や劇中音楽を作曲。東宝に移った菊田一夫氏が手掛ける演劇の舞台音楽を古関氏が担当し、電波から舞台へと活動の場を移します。
これといった娯楽が少ない時代でしたので、二人が手掛けたラジオドラマや演劇は、多くの人々の心をつかみ、大きなうるおいとなって溶け込んでいきました。
菊田氏とのコンビは、今もなお公演されている「放浪記」や、初の和製ミュージカル「津軽めらしこ」、世界で初めて「風と共に去りぬ」を舞台化するなど、約150編を数えました。
しかし、昭和48年の菊田一夫氏の死去は、古関氏に大きな衝撃を与え、『菊田さんが幕を降ろしたのなら、私もそうしようかと思った』というほど、菊田氏の存在は大きなものだったのです。

故郷ふくしま

『私の音楽のふるさとふくしま』
-古関裕而と福島-その深い関係は、単なる「生まれ故郷」を意味しているのではありません。その創作活動の裏には、いつも故郷ふくしまへの郷愁がありました。
信夫山の優しいまなざし、美しい阿武隈川の流れ。ふくしまは、そんな母にも似た姿で古関裕而氏の心の中で生き続けていました。
その現われとして、デビュー曲に「福島行進曲」「福島夜曲(セレナーデ)」を選んだことは特徴的なことと言えるでしょう。
今もNHKラジオ「ひるのいこい」の音楽として流れる田園的な古関メロディは、決して消え去ることのない郷里への深い愛情が反映されています。

教育界への貢献 -歌い継がれる古関メロディ:校歌-

古関裕而氏は、さまざまなジャンルの作曲を手掛けましたが、なかでも校歌を作曲していたことは、特筆すべきことです。
小学校、中学校はもちろん、幼稚園や大学、高校、短大、専門学校など、日本各地の学校の校歌、応援歌、青春歌などを作曲。およそ300校を数えます。
市町村合併や廃校などにより歌われなくなった校歌もありますが、その多くは今もなお、多くの生徒、学生たちによって歌い継がれております。
古関氏と校歌のエピソードを古関氏の次女は次のように語っています。
『北海道のある小学校の校長先生からの手紙が届きました。その手紙は、「古関裕而先生の歌が大好きなので、校歌を作曲してもらいたいが、小さな学校なので予算がなく、お礼らしいお礼が出来ない。それでも、もしかしたら作曲して下さるかもと、思い切って手紙をだしました」とのこと。この校長先生の手紙に父の心は動き、「お礼は結構です」と伝えて、校歌を作曲して送りました。校歌が出来て喜ばれた校長先生から、お礼の手紙と共に、学校の生徒たちからのお礼ですと、一斗缶入りの小豆が届きました。その小豆は、校歌のお礼にと一人一握りずつ、小豆を家から持ち寄った、心のこもったお礼でした。母はお汁粉やおはぎを作るのが得意なので、その小豆でせっせと作り、甘党な父はこれをよろこんで食べました。これが作曲のお礼と思うと、格別な味で、私にとっても嬉しいことでした。』

校歌一覧は以下のアドレスから参照いただけます。もしかしてあなたの母校も古関メロディ?

校歌一覧(古関裕而記念館ホームページ)

こんな一面も

多趣味な作曲家

古関裕而氏は、音楽ばかりでなく、自身で絵画をたしなみ(画集『風景の調べ』を自費出版)、当時としては珍しい8ミリ・9.5ミリカメラ(フランス・パテー社製)を用いて撮影をするなど、多趣味な面も垣間見ることができます。
また、お酒は飲めませんでしたが、愛煙家として知られており、「缶ピース」を愛煙しておりました。

機械好き

ラジオ放送が始まる大正14年、月刊誌「無線と実験」の愛読者であった古関裕而氏は、手製のラジオを作成するなど、機械好きな青年でした。同年7月12日に東京放送局(現NHK東京放送局)の放送開始には、手製ラジオを目の前にして、音がするのを今か今かと待ちかねていましたが、とうとう古関氏手製のラジオからは何も聞こえてこなかったそうです。
また、鉄道模型が大好きで、長男が子供の頃には、子供向けの32ミリゲージの汽車の模型を購入しましたが、自宅で走らせたときには、子供以上に本人が喜んで遊んだようです。

このページに関するお問い合わせ先

市民・文化スポーツ部 文化スポーツ振興室 文化振興課 文化振興係

福島市五老内町3番1号

電話番号:024-525-3785

ファクス:024-536-2128

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