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古関裕而生誕100年 代表曲

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福島ゆかりの曲

福島行進曲 作詞:野村俊夫 (昭和6年)

昭和初期には、全国的に新民謡(いわゆるご当地ソング)が流行。日本コロムビアの専属作曲家になる前年の昭和4年、福島でも何か作ろうということになり、古関裕而氏が作曲。 故郷に捧げる意図で、昭和6年5月デビューレコードとしてこの曲が発売。 昭和2年に完成し当時の福島のシンボルだった「福ビル」や、福島駅前通りにあった柳並木が歌詞に含まれており、当時の福島が偲ばれます。

福島夜曲(セレナーデ) 作詩:竹久夢二 (昭和6年)

古関裕而氏デビュー曲「福島行進曲」のB面としてレコード化。
昭和4年に竹久夢二展が福島市で開催。竹久夢二氏の「福島夜曲」の詩に深く感動した古関裕而氏が、感興のおもむくまま作曲したもの。
12編あった民謡調の詩から、「吾妻山」「弁天山」「信夫山」の3編を選びます。
当時20歳の古関氏が福島のホテルに滞在中の竹久夢二氏に直接面会し、楽譜を贈呈。竹久氏も大変喜び、その場で描いた吾妻山のスケッチを古関氏に返礼。これを期に文通・交流が始まりました。

遠い山河 たずねて来たに 吾妻しぐれて 見えもせず
川をへだてた 弁天山の 松にことづて してたもれ
信夫お山に おびときかけりゃ 松葉ちらしの 伊達模様

ふくしま小唄 作詞:野村俊夫 (年代不明)

福島市の北裡(きたうら)商店街の割烹・待合・芸妓でつくる三業組合が依頼して作ったといわれています。
歌詞には福島の名所(吾妻山・競馬・飯坂温泉・弁天山など)や、名物(さくらんぼ・萱場梨)が盛り込まれ、当時の宴会の席では欠かせない歌だったようです。

福島音頭 作詞:野村俊夫 (昭和29年)

ラジオ福島・福島民報社が制定した新民謡。作曲に古関裕而氏、作詞は野村俊夫氏、歌唱を伊藤久男氏と、コロムビアの福島三羽烏に、当時人気のあった神楽坂はん子氏が加わり、盆踊り用のレコードとして発売。同時に日本コロムビア文藝部によって、音頭の振り付けもおこなわれました。

花のスカイライン 作詞:内海久二 補作:野村俊夫 (昭和35年)

昭和34年に開通した「磐梯吾妻スカイライン」を記念して作曲されたもの。新しい観光スポットとなった吾妻スカイラインは、日活映画「赤い夕陽の渡り鳥」の舞台ともなりました。
福島民友新聞社と福島県によって、「スカイラインの歌」として詞を募集したところ、多くの作品が寄せられ、郡山市の内海久二氏の作品が当選作となり、補作を野村俊夫氏が担当しました。

阿武隈の歌 作詩:若山牧水 (昭和41年)

大正5年、東北を旅していた若山牧水が福島を訪れた際に詠んだ歌
 つばくらめ ちちと飛び交ひ 阿武隈の 岸の桃のはな 今さかりなり
に古関裕而氏が作曲したものです。
若山牧水が来福して50年の節目の年:昭和41年に、有志によって福島市の板倉神社にある阿武隈川畔に歌碑が建立されるのを記念して、古関氏により作曲されました。除幕式には、古関裕而氏が指揮をとり、岡本敦朗氏が独唱するなど、大々的に催されました。
さらに、昭和45年には、有志により音符を刻んだ「曲碑」が設置されました。
歌人として広く親しまれていた牧水の歌碑は、全国に275基もの歌碑があると言われています(東郷町若山牧水顕彰会調べ)が、楽譜が歌碑に添えられているのは、めずらしいもののようです。
また、福島市市民会館には、福島ライオンズクラブによって建てられた碑があります。
(→ゆかりの地

ふるさとはいつも瞼に 作詞:野村俊夫(昭和39年)

昭和39年に福島市出身の詩人野村俊夫氏が、望郷の思いと母への情愛を切々と詩にしました。同年は、東京オリンピックが開催された年であり、古関裕而氏作曲の「オリンピック・マーチ」が世界的に注目された頃です。
この曲は、残念なことにレコード化されてはおりません。

わらじ音頭 作詞:茂木宏哉 補作:丘灯至夫 (昭和45年)

昭和45年から始まった、福島の夏を彩る風物詩である「福島わらじまつり」の「わらじおどり」として作曲されたもの。
現在の「福島わらじまつり」は、例年8月初旬に2日間開催され、初日の「わらじおどり」、2日目の「ダンシングそーだナイト」の構成となっています。初日は古関裕而氏作曲の「わらじ音頭」にあわせて踊り、2日目の「ダンシングそーだナイト」は、「わらじ音頭」をヒップホップ調にアレンジしたものになっています。

歌謡曲

船頭可愛や 作詞:高橋掬太郎 (昭和10年)

コロムビア専属作曲家としてデビュー以来5年目での初の大ヒット曲。高橋掬太郎氏の歌詞に日本民謡の旋律を活かしながらも、クラシック調として作曲したもの。
日本歌謡界黎明期の重鎮作曲家:佐々紅華(さっさ こうか)氏や、蝶々夫人が代名詞の三浦環(みうら たまき)氏などからも大絶賛を博しました。
古関氏は自伝で「私は初めて、自分で作曲した曲がどこへおこなっても流れている喜びを知った。」と述べております。

露営の歌 作詞:藪内喜一郎 (昭和12年)

昭和12年春、古関裕而氏は夫婦で満州旅行に行っていましたが、その帰りの船でコロムビアから「急ぎの作曲があるので上京されたい」との電報がありました。
日本に戻ってから目にした新聞に「進軍の歌」歌詞募集の結果が掲載させていました。古関氏は東京へ向かう特急の中で、その第2席の歌詞に、満州で見たままの光景が浮かぶなど共感するものがあり、自然と作曲してしまいました。
東京に到着すると、コロムビアの担当者からは、その「進軍の歌」第2席の作曲依頼があり、古関氏も驚く偶然の一致でした。
この曲は「露営の歌」としてレコード化し、大ヒットしました。前線でも多くの兵士に愛唱され、戦いの疲れや気持ちをどれだけ癒したことでしょう。
京都嵐山に「露営の歌碑」があります。

暁に祈る 作詞:野村俊夫 (昭和15年)

愛馬思想普及のために松竹映画「暁に祈る」の主題歌として作曲依頼のあったもの。作詞に福島市出身の詩人:野村俊夫氏、歌唱に福島県本宮市出身の伊藤久男氏(2010年生誕100年)のコロムビア福島県トリオでの担当となりました。
古関氏の自伝によれば「中支戦線に従軍した経験がそのまま生きて、前線の兵士の心と一体になり、作曲が楽だった。兵隊の汗にまみれ、労苦を刻んだ日焼けした黒い顔、異郷にあって、故郷を想う心、遠くまで何も知らぬままに運ばれ歩き続ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前に彷彿し、一気呵成に書き上げた」快心の一作。
作詞の野村俊夫氏の死去を悼む友人知人により、福島市の信夫山第一展望台には、「暁に祈る」の歌碑があります。
(→ゆかりの地

若鷲の歌 作詞:西条八十(昭和18年)

海軍航空隊の予科練習生をテーマとした映画「決戦の大空へ」(東宝)の主題歌。
作詞を担当した西条八十とともに、土浦航空隊に一日入団し、その体験をもとに長調の曲を作曲するも、古関裕而氏自身納得できずにいたところ、
「担当のディレクターに聞かせると、これで十分とのことで航空隊へ行って聞かせることになった。歌手の波平暁男やアコーディオンの伴奏者、西条氏、ディレクターと共に出掛けた。
常磐線の車中、曲に対する不備が頭から離れない。利根川を渡り茨城県に入った頃、ふとある短音階のメロディが浮かんだ。「これだ、長い間求めていたのはこれだ」と言いきかせて、持参した五線譜に十六小節のメロディを書き、歌詞を入れて波平君に渡した。」(古関裕而自伝より)
長調の曲と、短調の曲を生徒が聴き比べをした結果、短調の曲が採用となった経緯のある曲。
昭和20年にB‐29による土浦海軍航空隊が空爆を受け、壊滅状態になったとき、重傷を負った同期の予科練生を病院に運ぶなか、ずっと「若鷲の歌」を歌って励ましたというエピソードがあり、予科練生たちに深く親しまれた曲でした。
なお、予科練のあった茨城県阿見町では、予科練平和記念館の建設を進めています(22年2月オープン)。古関氏直筆の「若鷲の歌」譜面(複製)が展示されます。
予科練平和記念館の情報はこちら(外部リンク)新しいウィンドウが開きます

雨のオランダ坂 作詞:菊田一夫 (昭和22年)

菊田一夫氏から、演劇で使用するため依頼のあった曲。
昭和10年に長崎を訪ねていた古関裕而氏は、菊田氏の抒情的でありロマンティックな美しい詞に、かつての長崎の情景を重ね、作曲意欲をそそられた快心の一作。
間奏には、「マダム・バタフライ」(蝶々婦人)のハミングコーラスの一部を入れたり、歌は三拍子・間奏は四拍子とするなど、古関氏ならではの独特な妙味を表現しています。
しかし作曲当時の長崎は、原子爆弾によりかつての美しい町並みは灰燼と化しておりました。

白鳥の歌 作詩:若山牧水 (昭和22年)

連続ラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として作曲されたもの。
若山牧水の有名な短歌
 白鳥は 悲しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよう
に曲をつけたものでした。古関裕而氏は、福島県川俣町で銀行に勤務をしていた経歴がありますが、その当時から和歌に曲をつけるなど、作曲の勉強をしておりましたので、その経験を活かしたものでした。
レコード化に際しては、一首のみでは短すぎるので、
 いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや
 幾山河 越えさり行かば さびしさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく
の二首を加えました。
短歌の作曲は難しいといわれていますが、短歌のもつムードをそのまま表現した古関氏ならではの歌曲といえましょう。この曲は、当時の高校生の音楽教科書にも採用され、大衆歌曲が教科書に掲載された珍しいケースでした。

長崎の鐘  作詞:サトウハチロー (昭和24年)

長崎医科大学の永井隆博士(医学博士、作家、長崎市名誉市民)が自身の被爆体験をもとに記された「長崎の鐘」「この子を残して」がベストセラーとなり、多くの人々の心を打ちました。
この出版を援助された式場隆三郎氏(精神科医。山下清氏を物心両面から支える。)の強い要請があり、レコード化が企画されたものでした。作詞を担当したサトウハチロー氏は、当初ベストセラーに便乗した企画と思ったため依頼を断りましたが、贈られた著書を読み、感動し、魂を込めて作詞をされました。実は、サトウ氏の弟も広島で被爆死されていたのです。
古関氏も自伝で、「サトウハチローさんの詞と心と共に、これは単に長崎だけでなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って、「なぐさめ」の部分から長調に転じて力強くうたい上げた。」と述べております。
存命中であった永井博士は、この曲をとても喜び、作詞:サトウハチロー氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:藤山一郎氏の三者に、御礼の手紙を贈りました。
古関氏は以後、何度か文通を重ねましたが、生前の永井博士に会うことはできませんでした。古関裕而記念館には、永井博士から贈られたロザリオ(病床の中で博士が自ら編んだ木綿製のもの)が展示されております。

あこがれの郵便馬車 作詞:丘灯至夫 (昭和26年)

古関裕而氏・丘灯至夫氏のコンビで作った乗物シリーズ第1段。
「こんな唱歌みたいな歌が売れるだろうか」と言われたそうですが、丘氏の「夢の世界」「ロマンの世界」の詞に、岡本敦朗氏のさわやかな声がマッチし、明るく健康的なホームソングとして多くの人に愛唱されました。
「郵便馬車」は、実際には配達に使われたことはなく、郵便局と郵便局との間に使用されたものでした。
二人が手掛けた乗物シリーズは、ケーブルカー、ヨット、高原列車、人工衛星などがあります。
丘灯至夫氏は福島県小野町出身であり、プライベートでも親交のあった二人ですが、古関・丘コンビで作っていない乗物シリーズは、「乳母車」と「霊柩車」だけだねと、冗談を言い合っていたと言います。

高原列車は行く 作詞:丘灯至夫 (昭和29年)

「あこがれの郵便馬車」と双璧をなす作詞:丘灯至夫氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:岡本敦郎氏のトリオ曲。
丘灯至夫氏は、幼少の頃、湯治で利用していた沼尻軽便鉄道の思い出を歌詞に込めていましたが、その歌詞からイメージした古関メロディは、スイスなどのヨーロッパを巡る高原列車をイメージした曲想でした。
この明るく健康的なホームソングは、中学校の音楽の教科書にも取り上げられ、当時遠足のために乗っていた中学生が「高原列車は行く」を歌っているのを、たまたま同乗していた古関氏がこれを聞き、大層喜んだといいます。
現在では、古関生誕100年を記念し、JR福島駅の在来線の発車メロディとして平成21年4月11日から流れています。

ラジオ・映画・舞台音楽

とんがり帽子 作詞:菊田一夫 (昭和22年)

戦災で父母を失った子供たちが巷にあふれ、上野の地下道の凍死者はあとを絶たず、誰も食べるのに精一杯の時代、CIE(連合国総司令部の民間情報教育部)により、戦災孤児救済のキャンペーンとしてNHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」がスタート。主題歌として作曲された曲です。
マーチテンポの明るい四拍子の曲に、菊田氏らしい愛らしく優しい詩情に満ちた美しい詞により、多くの人に愛唱されました。
ラジオ・ドラマは、週2回1年間の予定が、週5回3年6か月の長期放送となりました。この作品で、古関氏はハモンド・オルガンと出会います。2億数千万種の音色が出せ、幽玄な境地さえ表現できるこの楽器は、このラジオ・ドラマにその機能が十分に発揮されました。
古関氏の代名詞とも言えるハモンド・オルガンは、古関裕而記念館に展示されております。
なお、古関裕而記念館の外観は、「とんがり帽子」をイメージしております。

イヨマンテの夜 作詞:菊田一夫 (昭和25年)

NHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」のなかで、奥多摩の山奥で木材を切っている樵が歌詞のない歌を口ずさむという場面で使われましたが、奥多摩の深山をイメージして作曲したこの曲を古関裕而氏は、わずかの放送で消えるのが惜しくなり、菊田氏が旋律にあう歌詞をつけた曲です。
前奏があって始まるパターンを破り、オペラのアリア風に冒頭から歌詞が始まるこの曲は、アイヌの「熊祭り」を題材としたものです。
古関氏は自伝でも「派手で劇的な効果に男性的な豪快さがあり、男性なら一度は歌ってみたくなる曲である。が、難しいことも第一級で、リズムが十六分音符と八分音符の二拍子系なのに、メロディには三連音符が多く現れる二対三の変則的なリズムをいかに歌いこなすかが問題で、作曲にその面白みをねらってある。」と述べています。
一方、レコード会社は「こんな難しい歌は売れっこありませんよ」と見捨てて、ポスター一枚作成しなかったようですが、のど自慢でも男性のほとんどがこの曲を歌うなど、レコードはヒット盤となりました。

さくらんぼ大将 作詞:菊田一夫 (昭和26年)

「とんがり帽子」に続くNHKラジオ・ドラマ「さくらんぼ大将」の主題歌。前作に続き、脚本を菊田一夫氏、音楽を古関裕而氏が担当。
子供向けの番組として、社会問題抜きの明るいユーモアのある純情物語であるこのラジオ・ドラマは、福島市の茂庭が物語の舞台となっていますが、番組構想の段階で、舞台候補地に茂庭を菊田氏に推薦したのは、他ならぬ古関氏でした。ここにも、福島を故郷として想う古関氏の恩返しがうかがえます。
物語の舞台となった一部は、現在福島市の水源となっています「摺上川ダム」となっており、ダムの畔には物語の主人公「六郎太少年像」が設置されております。
(→ゆかりの地

君の名は 作詞:菊田一夫 (昭和28年)

「さくらんぼ大将」に続くNHKラジオ・ドラマ「君の名は」の主題歌。前作同様に、脚本を菊田一夫氏、音楽を古関裕而氏が担当。
大人向けのメロドラマとして、毎週木曜日の午後8時30分からの30分番組としてスタート。春樹と真知子のすれ違いは、ラジオ・ドラマはじまって以来の大ヒットともなりました。
松竹映画によって映画化となり、春樹に佐田啓二氏、真知子に岸恵子氏を起用。「真知子巻き」などの社会現象を生みました。
ラジオ・ドラマでは、同曲の歌唱を古関氏・菊田氏の意向でクラシックの声楽家とし、藤原歌劇団の高柳二葉氏が担当。ベルカントの美声はドラマに品位を添えました。一方、映画では織井茂子氏が起用され、双方とも大ヒット曲となりました。
「ラジオの時間には街の銭湯の女湯がガラ空きになる」という話は、松竹のうまい宣伝だったと古関氏は自伝で述べています。

放浪記 (昭和36年)

現在も舞台として上演されております「放浪記」(主演:森光子)は、林芙美子氏の自伝的小説「放浪記」を原作として、菊田一夫氏が脚本・演出し、昭和36年にスタート。その舞台音楽を古関裕而氏が担当しました。
菊田一夫氏と約36年間のコンビを組んで多くの作曲をしてきた古関氏。菊田氏の活動の場が、電波から舞台に変わってからの18年間、約150編の作品のなかで、今もなお続けられているこの「放浪記」。現在でも音楽キャストには、小川寛興氏ともに古関裕而氏の名があります。
平成21年5月9日に2,000回の公演を迎えました(昭和56年以降は三木のり平氏の潤色・新演出による)。

スポーツ音楽

栄冠は君に輝く 作詞:加賀大介 (昭和24年)

昭和23年の学制改革に伴い、それまでの全国中等学校野球大会が、全国高等学校野球選手権大会に変わったことを受けて、主催者の朝日新聞社からの依頼により作曲されたもの。歌詞は全国から公募されました。
古関裕而氏は自伝で、甲子園球場の「無人のグランドのマウンドに立って周囲を見回しながら、ここにくり広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロディが湧き、自然に形付けられてきた。やはり球場に立ってよかった。」と述べています。
作詞を担当した加賀大介氏は、野球の試合中の怪我から身体に障害を負い、野球を断念した経緯があり、野球への熱い想いを歌詞に込めたといいます。歌詞の3番に「美しく匂える健康」とあるのもうなづけるものがあり、加賀氏の高校球児に対する暖かい眼差しがうかがえます。
現在でもテレビなどでこの曲が流れており、多くの人に馴染みのあるこのメロディは、古関生誕100年を記念して、JR福島駅の新幹線発車メロディとして平成21年4月11日から流れています。

スポーツ・ショー行進曲 (昭和24年)

昭和22年、NHKのスポーツ放送のテーマ曲として作曲されたもので、昭和24年にコロムビアからレコード化されました。
現在でもNHKで使われておりますが、最初の放送のときは、NHK交響楽団を使って演奏されました。番組のテーマ音楽にN響が使われたのはこれが最初と言われています。放送が始まると、誰の作曲か?外国人の作曲か?スーザ(「星条旗よ永遠なれ」の作曲家。「マーチ王」が異名。)の曲ではないか?など問い合わせがたくさんあったようです。

オリンピック・マーチ (昭和39年)

昭和39年に開催されたアジア初の東京オリンピックで選手入場の行進曲として使用された曲。
オリンピック東京大会組織委員会とNHKから作曲依頼があったときには、「日本的なもの」という要求がありましたが、古関裕而氏は自伝で「各地の民謡や越天楽(えてんらく:雅楽の曲)も「日本的なもの」には違いないが、私はこれを曲想に活用することは考えなかった。また「君が代マーチ」や「軍艦マーチ」を参考にしようとは全く思わなかった。私にとって東京オリンピックにふさわしいマーチがどんどん浮かんでくる。私はひたすらこれを書き取った。」と述べています。
東京オリンピックが、戦後復興を象徴付ける国家イベントであると同時に、国際社会に復帰する意味合いも含まれておりましたので、東京オリンピックの選手入場行進曲の作曲を依頼されたということが、どれほどの名誉であったことでしょう。
事実、古関氏の長女は、そのときの父の喜びが尋常ではなかったと回想しています。
世界的作曲家古関裕而の誕生でした。

六甲おろし 作詞:佐藤惣之助 (昭和11年)

現在では「阪神タイガースの歌」が正式名称ですが、一般的には「六甲おろし」として今もなお、阪神ファンに親しまれております。
作曲した当時は、「大阪タイガースの歌」でしたが、現存するプロ野球球団のなかでも、最も古い球団歌です。
作詞を担当した佐藤惣之助氏は、神奈川県川崎市の出身であり、佐藤氏の生家跡地は現在、川崎信用金庫本店となっており、敷地内に「佐藤惣之助生誕の地碑」が建っております。阪神タイガースがリーグ優勝した平成15年には同碑の上に同曲の歌碑が設置されました。
なお、川崎信用金庫の社歌は、古関裕而氏の作曲というのも、偶然という言葉で片付けてよいものでしょうか?

闘魂込めて 作詞:椿三平 (昭和38年)

プロ野球の読売巨人軍創立30周年を記念し、同球団の球団歌「巨人軍の歌」として作曲されました。現在では、「闘魂込めて」という通称で親しまれております。
「闘魂込めて」は、巨人軍の球団歌として3代目となります。3曲のうち2曲が古関氏の作曲となり、1代目の球団歌が、昭和14年に作詞:西條八十氏、作曲:古関裕而氏、歌唱:伊藤久男氏(2010年生誕100年)により、「巨人軍の歌 -野球の王者-」として発表されております。

校歌・応援歌

福島商業高校青春歌 作詩:坂内萬 (昭和5年)
古関裕而氏の母校、福島県立福島商業高等学校(以下「福商」。)で校歌と共に、現在でも歌われております。
作詩の坂内萬(ばんない よろず)氏は、教師として福商(大正15年から昭和15年まで)で国語、漢文を担当されておりました。昭和初期といえば、昭和恐慌の暗い世相のなか、「大学はでたけれど」「卒業即ち失業」などと言われた時代。当時の生徒たちは世相から来る不安から流行唄ばかり歌っていることを嘆いた坂内氏は、若い学生に誇りと夢を持たせたいという願いを込めてこの詩を作られました。
当時の古関氏は、結婚、そしてコロムビアとの専属契約という大きな人生の転換期を迎えていた頃で、ちょうど上京の荷造りをしていた時に、作曲の依頼を受け、その場(約1時間)で作曲をしたというエピソードがあります。

紺碧の空 作詞:住治男 (昭和6年)

上京したての古関裕而氏は、福島県本宮市出身の伊藤久男氏(歌手。2010年生誕100年。)と懇意になり、伊藤氏の従兄弟が早稲田大学の応援部に属していたことから、第六応援歌として作曲依頼を受けたもの。
当時の早稲田は、早慶戦で慶応の応援歌「若き血」に圧され気味だったため、新しい応援歌を作ろうということになり、歌詞を早大全学生から募集しました。
今までの応援歌は第一から第五まであり、作曲に山田耕筰氏、中山晋平氏、近衛秀麿氏など、錚錚たる作曲家が名前を連なっていたことから、無名の新人に任せてよいものか、と作曲者選定に難航があったといいます。
応援歌の作曲に経験の浅かった古関氏は、なかなか歌詞に合う旋律が浮かばず、苦労しましたが、見事後生にまで歌い継がれる応援歌(現在では第一応援歌)として完成させました。
昭和51年、早稲田大学内大隈庭園内に「紺碧の空」記念碑が建立されております。

我ぞ覇者 作詞:杉浦洸 (昭和45年)

昭和21年、戦争によって中断されていた東京六大学野球リーグ戦が再開されました。
慶応大学応援団は、「打倒早稲田」を意識し、「紺碧の空」があまりにも良い曲であったので、新しい応援歌に同曲の作曲者である古関裕而氏に依頼。古関氏は、早稲田大学の了解を得ることを条件に承諾し、作曲されました。
歌は4番まであり、その4番が早慶戦専用の歌詞になっていて、「早稲田を倒せ」とあります。歌詞に特定の相手方の名前を入れる。今までに無かったことでした。
それを受けて、早稲田はさらに古関氏に作曲依頼をして「ひかる青雲」(昭和21年作曲。作詞:岩崎巖)を作っています。その歌詞には「慶応倒し」とあり、「目には目を。歌には歌を」なのでしょうか。早慶それぞれの力の入れようがうかがえます。
ライバル同士の作曲に同じ作曲者を双方が選ぶというのは、古関メロディがそれだけ応援歌として優れているという事実なのでしょう。

えっ、こんな曲も?

別れのワルツ スコットランド民謡 (昭和24年)

スコットランド民謡「Auld Lang Syne」(オールド・ラング・サイン。日本では「蛍の光」として有名。)が、昭和24年公開のアメリカ映画「哀愁」で効果的にアレンジされていました。そのアレンジを参考に、古関裕而氏が新しく手を加え(編曲)、コロムビアの洋楽盤「別れのワルツ“Farewell Waltz”」として発売されました。
そのレコードには、古関裕而の名前をもじった、編曲:ユージン・コスマン、演奏:ユージン・コスマン管弦楽団と表記されていた上、レコード規格が洋楽規格でしたので、当時の人々は外国録音のレコードと信じて疑わなかったといいます。
これがロング・セラーとなり、現在でもデパートやレストランなどの店舗閉店時のBGMとして使われています。

モスラの歌 作詞:由紀こうじ (昭和36年)

昭和36年に東宝により公開された映画「モスラ」で劇中に使われた曲です。
ザ・ピーナッツ扮する小美人がモスラを呼び出す歌として作曲され、日本の劇中音楽のなかでも、今なお多くの人々の耳に残っている曲の一つと言えるでしょう。
作詞の「由紀こうじ」は、田中友幸氏、本多猪四郎氏、関沢新一氏の3人の共同ペンネームであり、当初、歌詞は日本語で書かれ、インドネシア語に翻訳されて使われました。
古関裕而氏は、本当に幅の広い作曲活動をされていることがこのことからしてもうかがい知れますが、劇中に使われた多くの音楽(効果音楽)も古関氏が担当しました。

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