天文の乱は伊達稙宗(だてたねむね)・晴宗(はるむね)の親子が、国人(こくじん)たちを巻き込んで天文11(1542)~天文17(1548)年にかけて争った乱のことです。

乱は天文11(1542)年に晴宗が父・稙宗を突然西山城(にしやまじょう)(桑折町)に幽閉したことから始まります。

原因は、稙宗が越後国の守護職上杉定実(さだざね)に三男の実元を養子とし、それに精鋭の家臣100人を付けることにしたので、伊達家が骨抜きになってしまうことを恐れた晴宗が、実力行使に出たことにあります。

この事件はきっかけであって、稙宗・晴宗父子の間に以前から領国経営をめぐる対立や、稙宗の強引な段銭徴収(たんせんちょうしゅう)などへの不満などが家臣たちにあったことから、南奥羽の国人・戦国大名を二分する戦いとなりました。

稙宗党(最上、蘆名、相馬、田村、懸田、塩松、葛西、大崎氏などの姻戚)と晴宗党(岩城氏、中小の国人、伊達家の家臣)に分かれて戦い、乱の前半は稙宗方が有利に戦いを進めましたが、しだいに晴宗方が勢力を増していき、稙宗方から寝返る者が多くなりました。天文17(1548)年9月に父子が和睦し、「天文の乱」は終わりました。

この結果、稙宗は家督(かとく)を晴宗に譲り、丸森城(宮城県丸森町)に隠居しました。

天文の乱

伊達稙宗 (1488~1565年)VS 伊達晴宗 (1519~1577年)

伊達稙宗 (1488~1565年)

大永(たいえい)2(1522)年陸奥国守護となり、天文4(1535)年以後に棟別制度の整備、分国法塵芥集(じんかいしゅう)の制定、段銭制度の整備を実施するなど戦国大名伊達氏の基礎を築きましたが、その支配体制の強化が領国内部の反発を招き、子晴宗と天文の乱(1542~1548)を引き起こしました。敗れた後は、丸森城(宮城県丸森町)に隠居しました。

伊達晴宗 (1519~1577年)

出羽国米沢城主。父と争った天文の乱以後、米沢に本拠地を移します。天文22(1553)年家臣に対して知行判物を一斉に発給、後子輝宗と対立し、永禄7(1564)年47歳の若さで家督を譲り、陸奥国杉目城(すぎのめじょう)に隠居。

白いタイルが伸びている左側に大きな石や石灯籠、木々などが生え、「宝積寺参道」と書かれた門柱がある宝積寺参道の写真

宝積寺
-所在地福島市舟場町-

伊達晴宗が部下の霊を弔(とむら)い杉目城内に建立した寺で、晴宗の墓があります。

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