【開催報告】 令和6年度福島市歴史人材養成講座「ふくしまの養蚕」

 令和7年2月1日(土曜日)、福島市歴史人材養成講座「ふくしまの養蚕」を開催しました。
かつて、信達地方は江戸時代から、「信達蚕糸業地帯」として全国に知られていました。ただ、最盛期(昭和初期)には、福島県で養蚕農家は93,000戸あまりあったものの、現在では12戸となり、ほぼ消滅してしまいました(「令和5年度 ふくしまの蚕糸」福島県農林水産部)。
 今回の講座では、江戸時代を中心に、ふくしまの養蚕の発展の様子を、人々の創意工夫も紹介しながら講師の福島大学名誉教授 吉村仁作先生に解説していただきました。

「ふくしまの養蚕」の日時等

1 日時

 令和7年2月1日(土曜日) 13時30分~15時30分

2 会場

 じょーもぴあ宮畑ホール

3 受講者

 52名(連続講座受講者+公開講座受講者)

関連画像

講師が壇上に立ち「ふくしまの養蚕」について参加者たちに話している写真

 講師は、福島大学名誉教授 吉村仁作先生です。福島市史編纂委員会の副会長も務めています。

参加者の男性が講師にマイクを使い質問をしている様子を撮影した写真

 講座終了後、数人の受講者の方々から講演内容について質問があり、「ふくしまの養蚕」について、関心の高さがうかがえました。

受講者の男性が修了証を受け取るため背筋を伸ばし講師の話を聞いている写真

 令和6年5月から2月まで計10回の講座を実施しました。最後に、連続講座の受講者の皆さんに修了証を授与させていただき、今年度の「福島市歴史人材養成講座」を終了しました。
 受講者の皆さんはじめ、講師その他関係者の方々ありがとうございました。

【開催報告】 令和6年度福島市歴史人材養成講座「福島市の成り立ちー藩から町、そして市へー」

 令和7年1月11日(土曜日)、福島市歴史人材養成講座「福島市の成り立ちー藩から町、そして市へー」を開催しました。
 今回の講座では、福島市域の行政区画の変遷の説明があり、1.福島藩⇒福島町⇒福島市と単線的に発展・形成されたわけでないこと、2.近世の福島市域は、それぞれ支配体制が異なるため、その歴史を全体化することは難しいこと、3.近代は、県庁所在地の発展に伴う拡大が基軸であること、について理解を深めることができました。
 現在の福島市は、明治初期における村(ほぼ現在の大字)の数次にわたる合併を経て形成されました。さらに明治時代より前の市の区域を見てみると、福島藩および幕領のみならず、白河藩などの分領地もありました(参考:下のPDFをご覧ください)。
 市の歴史をひも解いてみると、それぞれの地域ならではの多彩な歴史が刻み込まれていることがわかります。
 今回は市の成り立ちを通し、多様性のある私たちの地域・郷土をあらためて見つめ直すよい機会にもなりました。

参考

「福島市の成り立ちー藩から町、そして市へー」の日時等

1 日時

 令和7年1月11日(土曜日) 10時~11時30分

2 会場

 アオウゼ

3 受講者

 69名

関連画像

マイクを持って椅子に座って聞く受講者に話す講師を撮影した写真

 講師は、福島県文化振興財団 歴史資料課主幹の山田英明さんです。

受講した内容について講師に説明をする赤い服の女性を撮影した写真

 多くの受講者の方々から講演内容について質問があり、関心の高さがうかがえました。

【開催報告】 令和6年度福島市歴史人材養成講座「福島の縄文文化・じょーもぴあ宮畑見学」

 令和6年12月7日(土曜日)、福島市歴史人材養成講座フィールドワーク「福島の縄文文化・じょーもぴあ宮畑見学」を開催しました。
 じょーもぴあ宮畑は、縄文時代中期から晩期までの約2,000年間にわたる、縄文時代の人々の生活を現在に伝える遺跡である「国史跡宮畑遺跡」を整備した公園で、平成27年8月8日に全面開園しました。
 今回の講座は、2部構成で実施しました。第1部は「福島の縄文文化」の講演で、福島市には1000か所以上の遺跡がある等の説明がありました。第2部はじょーもぴあ宮畑の屋内・屋外の施設見学で、受講者は講師の方の説明に熱心に聞き入っており、多くの質問が出されました。
 座学のみならず、施設見学も加わったことにより、受講者の縄文文化の理解も深まったようです。
 このホームページでは、その施設見学の様子の一部を紹介します。

「福島の縄文文化・じょーもぴあ宮畑見学」の日時等

1 日時

 令和6年12月7日(土曜日) 13時30分~15時30分

2 受講者

 14名

3 施設見学の様子(一部)

1.「福島の縄文文化」の講演
講演の前に受講者に話をする男性講師を撮影した写真
福島の歴史についてプロジェクターを使い講演をする講師と映像を見ながら聞く受講者の写真

 まずは、施設見学の前に「福島の縄文文化」の講演です。
 講師は、じょーもぴあ宮畑の堀江 格 所長補佐です。

2.施設見学(竪穴住居)
竪穴住居の入り口を手で指し示す講師と近づく参加者たちの写真
竪穴住居にぞろぞろと入っていく参加者と見守る講師の写真
竪穴住居の中に入り建物の構造などを見ている受講者を入り口から撮影した写真

 縄文時代中期の竪穴住居(復元)です。ひと家族(4~5人)が暮らしていました。受講者の皆さん(14人)が入っても、十分余裕がある広さでした。

3.掘立柱建物
掘立柱建物の地面に刺さる太い木の柱に片手をつきながら話す講師と聞く参加者たちの写真

 縄文時代晩期の掘立柱建物(復元)です。幼児のお墓との位置関係から、幼児をあの世におくるまつりに使われた建物と考えられます。宮畑遺跡で最大の柱を持つ、発見された建物群のシンボル的な建物です。

4.縄文時代、阿武隈川が流れていた場所
畑や民家が見渡せる広場から縄文時代に阿武隈川が流れていたであろう場所に指をさしながら話す講師と後ろで一緒に見る受講者たちの写真

 現在は、じょーもぴあ宮畑から西にかなり離れたところを阿武隈川が流れていますが、縄文時代は、写真のすぐ前方の段差あるところを流れていました。

5.露出展示棟
露出展示棟の中に入っていく受講者を後ろからスマホで撮っている男性を撮影した写真
露出展示棟の中にある発掘調査跡を見ている受講者たちを撮影した写真
発掘調査跡の地面を柵越しにじっと見る2人の男性の後ろ姿を撮影している写真

 3,500年前に祭りに使われた大量の縄文土器が見つかった場所を、発掘調査そのままの状況で展示しています。縄文時代に生きた人たちの息づかいを感じることのできる展示です。

6.屋内の展示施設
展示品を見ながら楽しそうに喋る受講者たちを撮影した写真
展示品や壁に貼られた資料などを見て回る受講者たちを撮影した写真
目玉である展示品を見ながら説明をする講師と受講者たちを撮影した写真
国重要文化財であるしゃがむ土偶を正面から撮影した写真

 屋内の展示施設は、宮畑遺跡で見つかった縄文土器や石器などを使って、縄文時代の四季の暮らしや文化などをわかりやすく伝える展示のほか、飯坂町東湯野で出土した「しゃがむ土偶」(国重要文化財)も展示してあります。

【開催報告】 ~信夫山公園開園150周年記念事業~ 講座信夫山物語 フィールドワーク「信夫山と福島の地質」

 令和6年11月9日(土曜日)、講座信夫山物語フィールドワーク「信夫山と福島の地質」を開催しました。
 今回のフィールドワークは、元福島県立高校教諭の野中俊夫先生を講師に、また、元福島県遺跡の案内人会長 紺野義行さんをお迎えし、平坦な福島盆地の中に信夫山がある謎を解くため、フィールドワークを行いました。

 今回は、その様子の一部を紹介します。

フィールドワーク「信夫山と福島の地質」の日時等

1 日時

 令和6年11月9日(土曜日) 9時00分~13時00分

2 受講者

 17名

3 コース

  1. 駒山公園(スタート)
  2. 太子堂駐車場
  3. 児童遊園北側
  4. 文化センター前
  5. 春日町緑地(トイレ休憩)
  6. 岩谷観音
  7. 山神配水池西
  8. ハイキング道路
  9. 第二展望台(トイレ休憩)
  10. 弘安の板碑
  11. 太子堂駐車場前(護国神社東側)
地図
フィールドワークで歩く場所を赤い線で書き記された地図

4 フィールドワークの様子(一部)

駒山公園
駒山公園前でフィールドワークの為集まった受講者たちと説明する講師を撮影した写真

 講師は、元福島県立高校教諭の野中俊夫先生(中央)です。先生は、日本地質学会・第四紀学会植生史学会の会員、元福島県自然環境保全審議会専門委員でもあります。写真左側は、紺野義行さん(前々回の信夫山の史跡めぐりの講師)です。
 スタート地点の駒山公園です。

太子堂駐車場
持ってきた岩石の説明をしている講師と周りに集まり話を聞く受講者たちを撮影した写真

 岩石の説明をする野中俊夫先生。

太子堂駐車場
大きな岩石を両手で持ち観察している参加者たちの写真

 受講者の皆さんも、実際に岩石を手に取って理解を深めます。

太子堂駐車場東側
木が斜めに生える足場の悪い場所の地層を自ら上り説明をしている講師と下で話を聞く受講者たちを撮影した写真

 地層の走向や傾斜などについて、説明する野中先生。

太子堂駐車場東側
器機を使い傾斜を調べる受講者たちの手元を撮影した写真

 野中先生が用意した器機(クリノメーター)で、受講者の皆さんが実際に地層の走向や傾斜を確認してみました。

信夫山児童遊園北側
児童遊園内の歩道横の傾斜のある場所の地層について説明する講師と並んで話を聞く受講者たちを撮影した写真

 こちらでも、地層の走向や傾斜などについて、説明されています。

音楽堂北側(幹線道路を挟んで北側)
自転車が入るギリギリの高さのある建物のスペースを撮影した写真

 信夫山児童遊園南側の歩道を歩いて文化センターを通過し、音楽堂の北側まで来ました。この地層からは火山灰のようなものが認められました。かつて火山活動が行われたようです。
 また、この付近でも、器機(クリノメーター)で、受講者の皆さんが地層の走向や傾斜を確認しました。

岩谷観音へ
岩谷観音の入り口にある階段を登っていく受講者たちの後ろ姿を撮影した写真

 歩道をさらに東へ歩き、岩谷観音に向かいます。

岩谷観音磨崖仏
白く大きな岩谷観音磨崖仏の地層や地質について説明する講師と上を見上げる受講者たちを撮影した写真

 岩谷観音磨崖仏の地層・地質について、説明する野中先生。

岩谷観音磨崖仏付近
岩谷観音磨崖仏付近にある苔の生えた岩を調べている講師と受講者たちを撮影した写真

 ここでも、器機(クリノメーター)で、地層の走向や傾斜を確認しました。

岩谷観音磨崖仏付近
地面に埋まった大きな岩を真上から撮影した写真
岩の真ん中にある化石を拡大して赤い丸で囲った写真
魚の背骨のような化石を拡大して赤い丸で囲っている写真

 魚の背骨などと思われる化石を見つけました。

重箱石の南側(第二展望台付近)
重箱石の南側にある岩石を顔を近づけてじっくりと観察している受講者たちを撮影した写真

 重箱石の南側の岩石を見る受講生の皆さん。

第二展望台
青空と街並みや向かいの山が全貌できる第二展望台で紙を使って説明する講師を撮影した写真

 野中先生が、福島盆地をとりまく山々、盛岡・白河構造線、阿武隈川・北上川低地帯などについて、説明しています。

第二展望台
器機を使い岩石を調査する受講者の2人を後ろ側から撮影した写真

 信夫山ガイドセンターの下でも、岩石を器機(クリノメーター)で地層の走向や傾斜を確認しました。今回のフィールドワークで、かつて信夫山で火山活動が行われたこと、岩谷観音付近にある化石は海底時代の名残であること、複数箇所における地層の走向や傾斜の確認により、信夫山が残丘となったことを学ぶことができました。

太子堂駐車場前(護国神社東側)
フィールドワークが終わり太子堂駐車場前で修了証をもらう受講者を撮影した写真

 7月の座学から始まり、9月の歴史・10月の生物・11月の地質のフィールドワークの講座について、天候に恵まれ、すべて実施することができました。最後に、受講者の皆さんに修了証を授与させていただき、今年度の「講座信夫山物語」を終了しました。
 受講者の皆さんはじめ、講師その他関係者の方々ありがとうございました。

【開催報告】 令和6年度福島市歴史人材養成講座 フィールドワーク「飯坂の史跡と文化財巡り」

 令和6年11月2日(土曜日)、福島市歴史人材養成講座フィールドワーク「飯坂の史跡と文化財巡り」を開催しました。
 飯坂町には歴史的建造物や遺跡などが多く存在します。同日は、あいにくの雨でしたが、歩きながら同町の史跡と文化財について、学びました。

 このホームページでは、そのフィールドワークの様子の一部を紹介します。

「飯坂の史跡と文化財巡り」の日時等

1 日時

 令和6年11月2日(土曜日) 9時30分~12時

2 受講者

 13名

3 コース

  1. 飯坂学習センター
  2. 花水坂
  3. 飯坂温泉駅
  4. 十綱橋(平成16年度 土木学会選奨土木遺産、令和2年4月3日 国登録有形文化財)
  5. 西根下堰(取入口)
  6. 三番坂
  7. 目暗淵
  8. 伊達一の頌徳碑
  9. 狐湯の滝
  10. 新十綱橋
  11. 旧花水館 奥の間(平成10年4月21日 国登録有形文化財)
  12. 旧堀切邸(令和2年4月3日 国登録有形文化財)
  13. 鯖湖湯
  14. なかむらや旅館(平成10年4月21日 国登録有形文化財)
  15. 旧採進堂酒店(令和元年9月10日 国登録有形文化財)
  16. 湖辺り坂
  17. 八幡神社(令和2年11月6日 市指定有形文化財)
  18. 飯坂学習センター

(注意)雨天などのため、7.目暗淵、9.狐湯の滝、15.旧採進堂酒店、17.八幡神社は、省略しました。

フィールドワークで歩くコースを赤い線で分かりやすく引いた地図

4 フィールドワークの様子(一部)

1.集合場所:飯坂学習センター
飯坂学習センターに集まり講師の説明を聞く受講者たちを撮影している写真

 講師は、飯坂史跡保存会 顧問の小柴俊男さん(中央右側)です。

須恵器の大甕(飯坂学習センター内展示)
須恵器の大甕について立ちながら話をする講師を横から撮影した写真

 須恵器の大甕を説明する小柴俊男さん。
 須恵器の大甕は、平安時代(9世紀)の竪穴住居跡で出土しました。大きさとしては国内でも最大級で、完成に近い形で復元できることは非常に珍しいことです。
 なお、出土した場所(月崎遺跡)は、飯坂支所・学習センター駐車場です。

2.花水坂
雨の降る中石柱に書かれた王貞治氏の直筆の文字を顔を近づけてみる受講者の写真

 明治のはじめまで、近くに天台宗の花水山孝徳寺という寺がありました。その寺へ登る坂が花水坂と呼ばれていました。新しく道が開かれても、旧名が残り、今も人々に親しまれています。
 写真の石柱の文字は、元読売巨人軍・王貞治氏の直筆です。

4.十綱橋(3.飯坂温泉駅から撮影)
国の最古級の鋼アーチ橋である十綱橋を傘を差して観察する受講者の写真

 大正4(1915)年に完成した我が国最古級の鋼アーチ橋です。平成16(2004)年に土木遺産に選定されました。その後、令和2(2020)年に国登録有形文化財となりました。
 受講者の皆さんが十綱橋を渡っています。

5.西根下堰(取入口)
西根下堰について説明する講師と周りに集まり話を聞く受講者の写真

 摺上川の水を西根郷の水田に導く水路として江戸時代初期に上堰と下堰が掘削され現在も使用されています。

6.三番坂
三番坂を傘を差しながら並んで歩いていく参加者たちの後ろ姿を撮影している写真

 この坂の由来は、3番目の坂だといわれていますが、ここにはほかに坂がありません。また、ある説では堰の取入口が3番目だといわれていますが、定かではありません。

8.伊達一の頌徳碑
歴史の書かれた石碑の真ん中にどっしりと置かれた伊達一の頌徳と書かれた碑を撮影している

 摺上橋が落ちてしまい、その後に架けた十綱橋もなかなか安定しないことを苦にした伊達一が、橋の人柱になろうと摺上川と赤川の合流地点に入水自殺したという話があります。この人柱説は、昭和39 (1964)年頃に菅野円蔵氏が縁故者から聞き取りをもとに調査、発表したもので、それ以前には語られていなかったようですが、発表後、新聞などに取り上げられて広く知られるようになりました。しかし、事実かどうか、確証はありません。

10.新十綱橋
新十綱橋を並んで歩く参加者たちを橋の反対側から撮影した写真

 新十綱橋は愛宕山の下の橋です。昭和37 (1962)年に着工し昭和41 (1966) 年3月に竣工しました。取付け道路の完成を待って同年9月に開通しました。
 両側から建設していった橋桁を中央で剛結する構造計算が確立していなかったことから、中央部をPC鋼棒によりピン結合とするヒンジラーメン橋として竣工しました。
 写真は、新十綱橋を渡る受講者の皆さんです。旧花水館に向かっています。

街の中を流れる川の上に架けられた新十綱橋を横から全体を撮影した写真

 写真は、南側から見た新十綱橋です。

11.旧花水館奥の間
赤みがかった広葉樹が植えられた旧花水館奥の間の庭園を撮影した写真

 明治30(1897)年建築の書院造り十畳二間の座敷は昭和天皇をはじめ皇族方の宿泊所とされました。平成10(1998)年に国登録有形文化財となりました。当日は雨で、建物の中には入れませんでした。

12-1 旧堀切邸
旧堀切邸と書かれた表札がかかる門の入り口で集まる受講者の写真

 江戸期の豪農豪商、明治以降も政治家等を輩出した堀切家の邸宅です。邸内の十間蔵は市指定有形文化財ですが、それ以外の邸内の6棟(主屋、新蔵、中の蔵、道具蔵、書庫、表門)については、令和2(2020)年に国登録有形文化財(建造物)となりました。

12-2 旧堀切邸
旧堀切邸の施設内で施設についての映像を見る受講者たちの写真

初めに、旧堀切邸のDVDを視聴しました。

12-3 旧堀切邸
綺麗に整備された邸内を班に分かれて見学していく受講者たちを撮影した写真

 2班に分かれて、邸内の見学をします。

12-4 旧堀切邸
市指定有形文化財である重厚な門が開かれた十間蔵を撮影した写真

 市指定有形文化財の十間蔵から見学を始めました。

12-5 旧堀切邸
建物内に飾られた書き物について説明をするガイドと話を聞く受講者たちを撮影した写真

 建物のなかも見学しました。案内してくださったのは、ガイドの高橋さんです。

13.鯖湖湯
鯖湖湯の前で説明をする講師と話を聞く受講者たちを撮影した写真

 松尾芭蕉も入浴したといわれる飯坂最古の共同浴場です。もともと現在の鯖湖公園にありましたが、平成5(1993)年に改築移転されました。

14.なかむらや旅館
土蔵造り三階建ての旅館建築であるなかむらや旅館を斜め前から撮影した写真

 土蔵造り三階建ての旅館建築で、本館は江戸時代、新館は明治20年代の築造です。内部の造作も見事で、平成10(1998)年、国登録有形文化財となりました。この建物の東側に同じく国登録有形文化財の旧採進堂酒店(注釈)があります。

(注釈)旧採進堂酒店
お酒の銘柄が書かれた看板が屋根の上に並ぶ旧採進堂酒店を正面から撮影している写真

 当日は、時間の関係で正面からの見学はしませんでしたが、旧採進堂酒店の建物です。明治中期の切妻造二階建て建造物で酒店の看板や土蔵を含め飯坂の伝統的町家の構成を伝え、令和元(2019)年、国の登録有形文化財となりました。右側の白い壁の建物は、なかむらや旅館です。

16.湖辺り坂
街中の奥まで長く続く湖辺り坂を見ている受講者たちを撮影した写真

 鯖湖坂と並んでいる坂で、「鯖湖湯」のあたりにあるためにこのように呼ばれていると伝えられています。伝承されている「透達湯」の由来によれば、俵籐太が大百足退治後に鯖湖湯の近くにある湖で百足の血を洗い流したと伝えられています。

18.解散場所:飯坂学習センター
飯坂学習センターに戻り締めの挨拶をする講師と周りで聞く受講者たちを撮影した写真

 終了予定時間の正午を若干過ぎましたが、無事終了することができました。講師の小柴俊男さん、受講者の皆さん、雨のなか、お疲れさまでした。
 次回(12月7日)、受講者の方々は、じょーもぴあ宮畑を見学します。

【開催報告】 ~信夫山公園開園150周年記念事業~ 講座信夫山物語 フィールドワーク「信夫山の植物」

 令和6年10月26日(土曜日)、講座信夫山物語フィールドワーク「信夫山の植物」を開催しました。
 今回のフィールドワーク(「生物」)は、福島大学共生システム理工学類教授の黒沢高秀先生を講師に、また、同学類生物多様性保全研究室客員研究員の猪狩資子さん及び元福島県遺跡の案内人会長 紺野義行さんをお迎えし、信夫山の植物を観察するフィールドワークを行いました。

 今回は、その様子の一部を紹介します。

フィールドワーク「信夫山の植物」の日時等

1 日時

 令和6年10月26日(土曜日) 9時~12時

2 受講者

 18名

3 コース

  1. 駒山公園(スタート)
  2. たんたら清水⇒小金山公園
  3. 第二展望台
  4. 弘安の板碑
  5. 太子堂駐車場前(護国神社東側)

 信夫山の植物の特徴

  1.  主な植生はアカマツ林、コナラ林、スギ林
  2.  カシ類などの暖帯系も見られる。
  3.  かつては湿原もあり、トキソウなども見られた。
  4.  暖帯系と冷温帯系の植物が混在する。

 このようなことを踏まえ、今回のフィールドワークを行いました。

地図
フィールドワークで歩くコースに休憩場所などが書かれている地図

4 フィールドワークの様子(一部)

駒山公園
駒山公園で始まりの説明をしている講師を撮影した写真

 講師は、福島大学共生システム理工学類教授の黒沢高秀先生(左から2人目)です。専門分野は、植物分類学です。また、同学類の客員研究員の猪狩資子さん(左から1人目)、前回(フィールドワーク「信夫山の史跡めぐり」)の講師 元福島県遺跡の案内人会長 紺野義行さん(右から1人目)にも参加していただきました。
 スタート地点の駒山公園です。

駒山公園
公園内にある欅の葉について説明する講師と話を聞く受講者たちを撮影した写真

 欅(けやき)の葉の説明をする黒沢先生。

葉に付いた欅の種に赤い丸を付けて分かりやすくした写真

 葉っぱの付け根に注目。これは、欅(けやき)の種です。枝先ごと風に運ばれます。

白く綺麗な花であるノコンギクについて説明する講師を撮影した写真

 ノコンギク(キク科)です。福島市の人里に最も多い野菊の1つです。野菊は、ほかにシラヤマギク、シロヨメナ、ユウガギクがあります。

木の下に大量に落ちているどんぐりを拾う受講者たちを撮影した写真

 ドングリを拾っている受講者の方々。食べることもできますが、雑菌等がついている可能性もあるので、おすすめしません。

しのぶ山会館付近の擁壁
コンクリートの壁の上からツルのように下に伸びるノブドウを観察する受講者たちを撮影した写真

 ノブドウの木です。この実は食べることはできません。青や紫の色がついて、実が大きくなってるのは、中に虫が入って「虫コブ」になっています。

太子堂駐車場前
ナラガシワの木になる細長いドングリを拾う受講者たちを撮影した写真

 「ナラガシワ」の木があります。この実(ドングリ)は大きめの細長いドングリですが、あまり落ちていないので、拾った方は嬉しそうでした。

黒沼神社
黒沼神社まで長く続く道路を歩いていく受講者たちを撮影した写真

 黒沼神社の北側の道路を進んでいきます。

黒沼神社の鳥居の脇にあるヒサカキの木について説明する講師と話を聞く受講者たちを撮影した写真

 黒沼神社の鳥居の脇に、ヒサカキの木があります。

建物を取り壊した場所から生えてきた草を赤い枠で囲んで分かりやすくした写真

 かつて、黒沼神社敷地の北西側に建物がありましたが、その建物を取り壊したところ、 赤い囲み枠の草が生えてきたそうです。

黒沼神社~たんたら清水
うっそうと生えた草の中にあるスギの葉を赤い枠で囲み分かりやすくした写真

 写真中央部に見えるのが、スギ(ヒノキ科)です。 スギは建材として有用なもので、国土の10パーセント以上に植林されています。昔は、低地で森林を作っていました。 来年の雄花がすでに作られています。

黒沼神社~たんたら清水
太く大きなアカマツの木の横を進んでいく講師と受講者たちを撮影した写真

 アカマツの大木です。 信夫山の主な植生の一つです。

たんたら清水
森の開けた場所に置かれた、たんたら清水の看板を読んでいる受講者たちを撮影した写真

 水量は少ないですが、年中かれることなく水が岩壁からしたたりでています。昔は信夫山にはこのような湧水地がいまよりありましたが、現在はたんたら清水を含め、数少なくなっています。

雷神碑と蛙石(びっき石)
雷神碑と蛙石のある場所に向かうため傾斜のある山道を並んで進む受講者たちを撮影した写真

 今回は生物のフィールドワークですが、歴史のフィールドワークの講師 紺野義行さんも参加されていましたので、たんたら清水を過ぎた後、雷神碑と蛙石(びっき石)を案内していただきました。
 写真は、現地に向かう受講者の方々です。

森の中にある大きな石碑である雷神碑と蛙石を正面から撮影している写真

 雷神碑(左)と蛙石(右)です。蛙石は、口を真一文字に結び、目を見開いているように見えます。
 この石のある峰を「鶏頭森」といい、農民の雨ごいの祈祷場だったそうです。

小金山公園付近
小金山公園の付近にある綺麗に積まれた昔の果樹園の石垣を眺める受講者たちを撮影した写真

 小金山公園の付近に、昔の果樹園の石垣がありました。

第二展望台に行く途中
整備された歩道の横に植えられたビワの木の説明をする講師と受講者たちを撮影した写真

 ビワの木の説明をする猪狩資子さん。

第二展望台
街を一望できる第二展望台に集まり休憩前の話をする講師と受講者たちを撮影した写真

 第二展望台で、10分程度休憩です。

第二展望台~弘安の板碑
道路の横に生えるヤダケについて説明する講師と集まって話を聞く受講者たちを撮影した写真

 ヤダケ(イネ科)について、説明する黒沢先生。海岸部に自生する笹の仲間です。弓矢の材料に使われ、おそらく古くに植えられたもので、信夫山にはあちこちに見られるとのことです。

第二展望台~弘安の板碑~太子堂駐車場前(護国神社東側)
ゆず畑の端に生えた特定外来生物のアレチウリを手に取り説明する講師と話を聞く受講者たちを撮影した写真

 帰路の途上、ゆず畑の近くの道路脇に、アレチウリが生育していました。この植物は特定外来生物に指定されています。

第二展望台~弘安の板碑~太子堂駐車場前(護国神社東側)
帰路にあるゆずの木を見ながら歩いていく講師と受講者たちを撮影した写真

 帰りは右側のゆずの木を見ながら、太子堂駐車場前(護國神社北側)に戻りました。最初に記した「信夫山の植物の特徴」を確認することができたフィールドワークでした。

【開催報告】フィールドワーク「城下町を歩こう」

 令和6年10月19日(土曜日)、フィールドワーク「城下町を歩こう」を開催しました。
 今回のフィールドワークは、福島城を中心に、私たちの今につながる城下町の名所・旧跡をめぐるもので、一般参加者の方々が、福島市歴史人材養成講座の受講者の方々が10月5日に歩いた同じコースを歩くものでした。

 このホームページでは、その様子(一部)を紹介します。

「城下町を歩こう」の日時等

1 日時

 令和6年10月19日(土曜日) 9時30分~12時

2 参加者

 20名

3 コース

  1. 大佛城阯碑
  2. 福島城址碑
  3. 大佛城宝塔
  4. 板碑
  5. 福島城土塁
  6. 密語橋(ささやきばし)
  7. 御倉邸
  8. 福島河岸
  9. 中村呉服店跡
  10. 宝林寺
  11. 宅宝院
  12. 柳稲荷
  13. 信夫橋
  14. 常光寺
  15. 真浄院
  16. 誓願寺
  17. 康善寺
  18. 米沢口(庭坂口)跡
  19. 古関裕而生誕の地記念碑
  20. 到岸寺
  21. 福島縣里程元標(復元)・福島市道路元標
  22. 福島城大手門跡
地図
フィールドワークで歩いていく道筋を青い矢印で分かりやすく示した地図

4 フィールドワークの様子(一部)

集合場所:県庁自転車置き場
黄色の服を着た講師がマイクを持ち受講者に説明をしている写真
講師は、ふれあいボランティアの写真右から、小熊眞一さん、鈴木康郎さんの2人です。
1.大佛城阯碑
地面に埋まった大佛城阯碑を受講者たちが集まって観察している写真
写真左の石が大佛城阯碑です。この場所に佐藤一族の杉目太郎行信の屋敷があったといわれています。杉目寺のあったところに城を築いたので、寺に安置してあった大仏にちなみ大仏城または杉目城と呼ばれていました。
2.福島城址碑
芝生の生える地面にある福島城址碑を資料を見ながら見ている受講者たちの写真
福島藩を治めた歴代藩主たちの拠点です。木村吉清が文禄 2(1593)年頃に、杉目城を福島城に改名したことからはじまります。天守閣を持つ城ではなく、陣屋が建てられ ていました。
3.大佛城宝塔
大佛城宝塔を資料を見ながら受講者に説明をしている講師の写真
福島県指定重要文化財です。明治の初め、県庁舎南の土塁近くから発見されました。弘安6 (1283)年銘のある宝塔です。
4.板碑
板碑の説明が書いてある看板の前で集まり講師の話を聞きながら観察する受講者たちを撮影している写真
鎌倉時代の板碑で、大正13 (1924)年、松齢橋架橋工事中に河底から発見されました。
5.福島城土塁
土の盛り上がった福島城土塁の看板の前で資料と見比べる受講者たちを撮影した写真
県庁西庁舎南側にありま す。土塁とは、敵の侵入を防ぐために土を堤防上に積んで築かれた壁のことです。現地にはこの土塁について説明板があります。
6.密語橋(ささやきばし)
緑が茂る中にある密語橋を観察する受講者たちと指さしをして説明する講師の写真
杉妻会館の西側に位置した堀に架けられていた長さ5間 (約9メートル) 幅2間 (約3.6メートル) の手摺り付きの板橋で、天保 14(1843)年に土橋に替えられたといわれています。写真は杉妻会館の庭園内に石橋で再現されているものです。
7.御倉邸
御倉邸がどのように造られたのかを講師の説明を聞き見て回る受講者たちを撮影した写真
旧日本銀行福島支店支店長の役宅として昭和2(1927)年に建てられ、使用されていました。この場所にはかつて、福島藩や米沢藩の米蔵があり、平成23(2011)年に旧米沢藩の米蔵が復原されました。写真は、御倉邸内です。
8.福島河岸
橋が架かる福島河岸の岸を歩く受講者たちを上から撮影した写真
荷物の積み下ろしをする船着場を河岸(かし)と呼び、阿武隈川舟運の起点にあたる福島河岸は、福島城の西南に位置していました。幕領の年貢米を貯蔵する「御城米御蔵」や福島藩・米沢藩の「米蔵」などがありました。現在の御倉邸付近に福島河岸が再現されています。
9.中村呉服店跡
中村呉服店があった跡を現地まで行き講師から説明を受ける受講者たちを撮影した写真
御倉邸を出た後、近くにある中村呉服店 (中合の前身) のあった場所について、説明していただきました。同店は大正初期まで荒町にありまし た。
10.宝林寺
宝林寺の前にあるスペースに集まり講師から説明を受ける受講者たちを撮影した写真
宝林寺は、永仁5(1297) 年に真教上人によって二本松市にある畠山氏の当時の菩提寺称念寺や桑折町の桑折寺などとともに、開創されまし た。畠山義継の没後は、称念寺は廃寺となり、称念寺にあった義継の位牌および寺宝は宝林寺に移転しました。また戊辰戦争時の官軍兵士の墓も安置されています。境内の大銀杏は推定樹齢700年といわれる銀杏(左の写真) があります。
宝林寺の境内にある大きな銀杏の木の周りに集まる受講者たちを撮影した写真
11.宅宝院
赤みがかった石碑をじっと見る黒い服の男女を後ろから撮影している写真
慶長7(1602)年に川俣か ら遷座した修験宗のお寺です。石碑(写真赤丸)は、明治14(1881)年に福島の町の約8割が焼失した甚兵衛火事の時、火に焼かれ赤く変色し、二つに割れたものを修復したものです。以前は門の脇にありました。
12.柳稲荷
白く大きな柳の幹で作られた鳥居の前で説明を受ける受講者たちを撮影した写真
須川が大洪水となり柳町一帯が浸水した時、上流から一個の箱が現信夫橋より西上の柳の老木の根元に流れつきました。すると水が引き、水害から逃れることができました。箱は稲荷大明神の祠であり、人々は洪水から救ったのは稲荷大明神と信じ、町の守護神として祀りました。その後、甚兵衛火事で焼失し、昭和8 (1933)年現在地に再建されました。
13.信夫橋
道路の上に架かる信夫橋を渡っている受講者たちを橋全体が見えるように正面から撮影した写真
日本百名橋のひとつ。以前は石橋で13個のアーチに組み上げた構造から「十三眼鏡橋」とも呼ばれ、その美しい意匠から錦絵に描かれ、全国に紹介されました。しかし、洪水などにより何度か落橋し架け替えられ、現在の姿となっています。橋の付近には奥州街道の出入り口である、江戸口がありました。
信夫橋を渡ってすぐに置かれた2メートル程の親柱の説明を受ける受講者たちを撮影した写真
現在の信夫橋の北側に、明治18(1885)年竣工の二代目信夫橋の親柱が保存されています。
14.常光寺
入り口を歩いて常光寺に向かっていく受講者たちの後ろ姿を撮影した写真
常光寺は大森に永正3 (1506)年に開かれ、文禄2 (1593)年に福島に城下を移す際、現在の場所に移り「長安寺」と称しました。さらに寛永15(1638) 年には定光寺と合併し、現在に至ります。元禄年間からは福島板倉家の菩提寺となり、戊辰戦争時は11代藩主勝尚が謹慎をしていました。明治10(1877)年には全国に先駆けて模擬県会も開かれました。
15.真浄院
真浄院の入り口にある重厚感のある門の前で集まって話している受講者たちを撮影した写真
延暦2(783)年空海が開き、慶長5(1600) 年に快翁 (かいおう)が再建したといわれます。伊達市霊山町にあった遍照寺(へんじょうじ)が前身と伝えられます。何度か大火で焼失しましたが、昭和56 (1981)年に本堂が新築されました。国の重要文化財に指定されている鍍金金剛鈴 (ときんこんごうれい) 金剛杵 (こんごうしょ)と市指定文化財の両界曼荼羅 (りょうかいまんだら)があります。
16.誓願寺
誓願寺の門を見ながら次の目的地に向かっている受講者たちを撮影した写真
永禄10(1567)年に良念が開いたとされています。文禄年間、大森城主の木村吉清が杉目城に移る際、誓願寺も福島の新城下に移りました。一説によると山号「福島山」は杉目を福島と改めた際に地名から命名されたといわれます。 文禄2(1593)年に建築された本堂は、天保3(1832) 年と明治14(1881) 年の火災で焼失したため、現在の本堂は明治36(1903) 年再建されました。
17.康善寺
2階建ての建物と同じ高さのある康善寺の門を下から眺めている受講者たちを撮影した写真
黒岩にあった秀安寺の13代宗覚の時、上杉定勝の家臣で福島奉行信夫郡代だった古河善兵衛が西根・東根の2大疎水開発で財産を使い果たし、子孫を絶つことを避けるために、宗覚と計って同寺を福島に移し、信州康楽寺の重覚を迎えて三女おまんと結婚させて14代を継ぎ、この寺を康善寺と改称しました。
18.米沢口(庭坂口)跡
米沢口(庭坂口)跡の説明版を読んだり撮影したりしている受講者たちを撮影した写真
天文18(1549)年頃、伊達晴宗が居城を桑折西山城から米沢城へ移した際に開かれた街道の起点となります。福島城下から笹木野・庭坂・李平・板谷宿、そして米沢へと続 き、上杉氏の参勤交代などで使われました。現地には、米沢口(庭坂口)の説明板があります。
19.古関裕而生誕の地記念碑
煉瓦で作られた道を歩いながら講師の説明を聞いている受講者たちを撮影した写真
平成10(1998)年レンガ通り整備完成を記念し、地元レンガ通り振興会により古関裕而の生家「喜多三呉服店」跡地に記念碑を建立しました。
20.到岸寺
到岸寺の入り口にある説明版まで到着した講師と受講者たちを撮影した写真
良憲が開いたといわれる浄土宗のお寺です。良憲は天正6 (1578)年頃、杉妻の地へ 2度訪れ、教えを広めたといわれます。はじめは杉妻城内の大日堂を与えられましたが、元和2(1616)年に大町に寺を移す際、大日堂は信夫山の小山荒井へと移されました。 このお寺では杉目大仏である胎内仏を宝庫にまつりましたが、明治14(1881)年の基兵衛火事で焼失しました。その後、信夫山から大日堂ごと現在の大仏(木造大日如来坐像)が移されました (杉目大仏の2代目)。高さは2.35メートル、市内最大の坐像です。
到岸寺の柳の木が生える境内で資料を読む受講者たちを撮影した写真
21.福島懸里程元標(復元)・福島市道路元標
街の真ん中に置かれた福島懸里程元標と彫られた大きな木の板の周りに集まる受講者たちを撮影した写真
里程とは、目的地や次の宿場までの距離のことです。明治6(1973)年、明治政府は高札場を撤去し、距離を実測して各県庁所在地の交通の要所に里程元標を立てました。 1尺角(約30センチメートル) 高さ1丈2尺(約3.6メートル)の角材を使用し、次の宿駅までの距離等が書かれていました。大正8(1919)年旧道路法令により、里程元標に代わり市町村ごとに道路元標を設置しました。石柱で最初に設置されたのは現在の交差点中心付近です。
22.福島城大手門跡
二車線道路の真ん中に置かれた福島城大手門跡の看板を道路脇から観察する男女の受講者を撮影した写真
福島城の大手門は、二重の屋根にシャチが見られ、分厚い扉には鉄板を張った黒金門造りでした。左右の石垣の上に白壁の堀をめぐらせていました。板倉重寛は宝永6 (1709)年大手門改修工事を幕府に願い出て、翌7年4月に大手門の棟上げを行いました。
23.解散・県庁
県庁前のスペースに集まり締めの挨拶をしている講師を撮影した写真
普段、意識してない市街地も、歩いて見るといろいろな発見が参加者の方々にもあっ たようです。 天気も良く、いい街歩きの日になりました。

【開催報告】 令和6年度福島市歴史人材養成講座フィールドワーク「城下町を歩こう」

 令和6年10月5日(土曜日)、福島市歴史人材養成講座フィールドワーク「城下町を歩こう」を開催しました。
 江戸時代、福島は板倉家の治める福島藩の城下町でした。明治維新以降、近代化がはかられ、町の様相は大きく変化しましたが、かつての奥州街道をはじめとする町筋は依然として城下町当時を色濃く反映しています。
 今回の講座では、福島城を中心に、私たちの今につながる城下町の名所・旧跡をめぐりました。
 このホームページでは、フィールドワークの様子の一部を紹介します。

「城下町を歩こう」の日時等

1 日時

 令和6年10月5日(土曜日) 9時30分~12時

2 受講者

 14名

3 コース

  1. 大佛城阯碑
  2. 福島城址碑
  3. 大佛城宝塔
  4. 板碑
  5. 福島城土塁
  6. 密語橋(ささやきばし)
  7. 御倉邸
  8. 福島河岸
  9. 中村呉服店跡
  10. 宝林寺
  11. 宅宝院
  12. 柳稲荷
  13. 信夫橋
  14. 常光寺
  15. 真浄院
  16. 誓願寺
  17. 康善寺
  18. 米沢口(庭坂口)跡
  19. 古関裕而生誕の地記念碑
  20. 到岸寺
  21. 福島縣里程元標(復元)・福島市道路元標
  22. 福島城大手門跡
地図
フィールドワークで回るコースの番号までの道筋を青い線でつないでいる地図

4.フィールドワークの様子(一部)

集合場所:県庁自転車置き場
4人の講師の中の黄色い服を着た講師の男性がマイクを持ち説明している写真
講師は、ふれあいボランティアの写真右から、小熊眞一さん、名越正家さん、照内哲雄さん、村上博彦さんの4人です。
1.大佛城阯碑
屋敷跡に置かれた大佛城阯碑を資料を見ながら観察する受講者たちを撮影した写真
写真左の石が大佛城阯碑です。 この場所に佐藤一族の杉目太郎行信の屋敷があったといわれています。杉目寺のあったところに城を築いたので、寺に安置してあった大仏にちなみ大仏城または杉目城と呼ばれていました。
2.福島城址碑
福島城址碑の前で撮影や資料にメモをする受講者たちの後ろ姿を撮影した写真
福島藩を治めた歴代藩主たちの拠点です。木村吉清が文禄2(1593)年頃に、杉目城を福島城に改名したことからはじまります。天守閣を持つ城ではなく、陣屋が建てられていました。
3.大佛城宝塔 4.板碑
大佛城宝塔と板碑を赤と青の丸で囲って場所を分かりやすくしている写真
3.大佛城宝塔…青色の丸、福島県指定重要文化財です。明治の初め、県庁舎南の土塁近くから発見されました。弘安6(1283)年銘のある宝塔です。 4.板碑…赤色の丸、鎌倉時代の板碑で、大正13(1924)年、松齡橋架橋工事中に河底から発見されました。
5.福島城土塁
福島城土塁の説明板を読む受講者たちの隣で説明をしている講師を撮影した写真
土塁とは、敵の侵入を防ぐために土を堤防上に積んで築かれた壁のことです。現地には写真のように説明板があります。
6.密語橋(ささやきばし)
密語橋の場所を赤い丸で囲って分かりやすくしている写真
杉妻会館の西側に位置した堀に架けられていた長さ5間(約9メートル)幅2間(約3.6メートル)の手摺り付きの板橋で、天保14(1843)年に土橋に替えられたといわれています。写真は杉妻会館の庭園内に石橋で再現されているものです。
7.御倉邸
砂利が敷かれ整備された御倉邸の庭先を歩いて回る受講者たちと講師の写真
旧日本銀行福島支店支店長の役宅として昭和2(1927)年に建てられ、使用されていました。 この場所にはかつて、福島藩や米沢藩の米蔵があり、平成23(2011)年に旧米沢藩の米蔵が復原されました。
8.福島河岸
福島河岸の岸辺に集まり河川を眺める受講者たちの写真
荷物の積み下ろしをする船着場を河岸(かし)と呼び、阿武隈川舟運の起点にあたる福島河岸は、福島城の西南に位置していました。幕領の年貢米を貯蔵する「御城米御蔵」や福島藩・米沢藩の「米蔵」などがありました。現在の御倉邸付近に福島河岸が再現されています。
9.中村呉服店跡
中村呉服店跡の前で記念写真を撮る講師と受講者たちの写真
御倉邸を出た後、近くにある中村呉服店(中合の前身)のあった場所について、説明していただきました。大正初期まで荒町にありました。
10.宝林寺
宝林寺の前で各々講師の説明を聞いたり写真撮影をする受講者たちを撮影した写真
宝林寺は、永仁5(1297)年に真教上人によって二本松市にある畠山氏の当時の菩提寺称念寺や桑折町の桑折寺などとともに、開創されました。畠山義継の没後は、称念寺は廃寺となり、称念寺にあった義継の位牌および寺宝は宝林寺に移転しました。 また戊辰戦争時の官軍兵士の墓も安置されています。境内の大銀杏は推定樹齢700年といわれる銀杏があります。
11.在宝院
在宝院にある石碑の説明をする講師と話を聞く受講者たちを撮影した写真
慶長7(1602)年に川俣から遷座した修験宗のお寺です。 石碑は、明治14(1881)年に福島の町の約8割が焼失した甚兵衛火事の時、火に焼かれ赤く変色し、二つに割れたものを修復したものです。以前は門の脇にありました。
12.柳稲荷
稲荷大明神が祀られた赤く綺麗な祠を近くで見る受講者たちの写真
須川が大洪水となり柳町一帯が浸水した時、上流から一個の箱が現信夫橋より西上の柳の老木の根元に流れつきました。すると水が引き、水害から逃れることができました。箱は稲荷大明神の祠であり、人々は洪水から救ったのは稲荷大明神と信じ、町の守護神として祀りました。その後、甚兵衛火事で焼失し、昭和8(1933)年現在地に再建されました。
13.信夫橋
信夫橋の上で講師の説明を受ける受講者たちを橋の下から撮影した写真
日本百名橋のひとつ。以前は石橋で13個のアーチに組み上げた構造から「十三眼鏡橋」とも呼ばれ、その美しい意匠から錦絵に描かれ、全国に紹介されました。しかし、洪水などにより何度か落橋し架け替えられ、現在の姿となっています。 橋の付近には奥州街道の出入り口である、江戸口がありました。
橋の下に置かれた親柱を撮影する赤い服の男性を撮影した写真
現在の信夫橋の北側に、明治18(1885)年竣工の二代目信夫橋の親柱が保存されています。
14.常光寺
常光寺の入り口前で集まり説明をする講師の周りで話を聞く受講者たちの写真
常光寺は大森に永正3(1506)年に開かれ、文禄2(1593)年に福島に城下を移す際、現在の場所に移り「長安寺」と称しました。さらに寛永15(1638)年には定光寺と合併し、現在に至ります。 元禄年間からは福島板倉家の菩提寺となり、戊辰戦争時は11代藩主勝尚が謹慎をしていました。 明治10(1877)年には全国に先駆けて模擬県会も開かれました。
15.真浄院
道路前のスペースに集まり白い説明板を見る受講者たちの写真
延暦2(783)年空海が開き、慶長5(1600)年に快翁(かいおう)が再建したといわれます。伊達市霊山町にあった遍照寺(へんじょうじ)が前身と伝えられます。何度か大火で焼失しましたが、昭和56(1981)年に本堂が新築されました。 国の重要文化財に指定されている鍍金金剛鈴(ときんこんごうれい)・金剛杵(こんごうしょ)と市指定文化財の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)があります。
16.誓願寺
マイクを持って説明する講師と奥を見つめる受講者たちの写真
永禄10(1567)年に良念が開いたとされています。文禄年間、大森城主の木村吉清が杉目城に移る際、誓願寺も福島の新城下に移りました。一説によると山号「福島山」は杉目を福島と改めた際に地名から命名されたといわれます。 文禄2(1593)年に建築された本堂は、天保3(1832)年と明治14(1881)年の火災で焼失したため、現在の本堂は明治36(1903)年再建されました。
17.康善寺
大きな康善寺の門を目印に歩いていく受講者たちの写真
黒岩にあった秀安寺の13代宗覚の時、上杉定勝の家臣で福島奉行信夫郡代だった古河善兵衛が西根・東根の2大疎水開発で財産を使い果たし、子孫を絶つことを避けるために、宗覚と計って同寺を福島に移し、信州康楽寺の重覚を迎えて三女おまんと結婚させて14代を継ぎ、この寺を康善寺と改称しました。
18.米沢口(庭坂口)跡
米沢口(庭坂口)跡にある説明板を読みながら詳しい説明をする講師と話を聞く受講者たちの写真
天文18(1549)年頃、伊達晴宗が居城を桑折西山城から米沢城へ移した際に開かれた街道の起点となります。福島城下から笹木野・庭坂・李平・板谷宿、そして米沢へと続き、上杉氏の参勤交代などで使われました。
19.古関裕而生誕の地記念碑
煉瓦通りにある古関裕而生誕の地記念碑を歩行者の邪魔にならないように遠くから見る受講者たちの写真
平成10(1998)年レンガ通り整備完成を記念し、地元レンガ通り振興会により古関裕而の生家「喜多三呉服店」跡地に記念碑を建立しました。
20.到岸寺
綺麗に整備された到岸寺の境内で楽しく喋る受講者たちの写真
良憲が開いたといわれる浄土宗のお寺です。良憲は天正6(1578)年頃、杉妻の地へ2度訪れ、教えを広めたといわれます。はじめは杉妻城内の大日堂を与えられましたが、元和2(1616)年に大町に寺を移す際、大日堂は信夫山の小山荒井へと移されました。 このお寺では杉目大仏である胎内仏を宝庫にまつりましたが、明治14(1881)年の甚兵衛火事で焼失しました。その後、信夫山から大日堂ごと現在の大仏(木造大日如来坐像)が移されました(杉目大仏の2代目)。高さは2.35メートル、市内最大の坐像です。
21.福島懸里程元標(復元)・福島市道路元標
繁華街の真ん中に建てられた福島懸里程元標の角材を下から見上げる受講者たちの写真
里程とは、目的地や次の宿場までの距離のことです。明治6(1973)年、明治政府は高札場を撤去し、距離を実測して各県庁所在地の交通の要所に里程元標を立てました。 1尺角(約30センチメートル)、高さ1丈2尺(約3.6メートル)の角材を使用し、次の宿駅までの距離等が書かれていました。大正8(1919)年旧道路法令により、里程元標に代わり市町村ごとに道路元標を設置しました。石柱で最初に設置されたのは現在の交差点中心付近です。
22.福島城大手門跡
二車線道路の真ん中に置かれた福島城大手門跡の看板を道路脇に集まり講師の話を聞く受講者たち
福島城の大手門は、二重の屋根にシャチが見られ、分厚い扉には鉄板を張った黒金門造りでした。左右の石垣の上に白壁の堀をめぐらせていました。板倉重寛は宝永6(1709)年大手門改修工事を幕府に願い出て、翌7年4月に大手門の棟上げを行いました。
23.解散・県庁
県庁の木が植えられた横のスペースに集まり締めの挨拶を聞く受講者たちを撮影した写真
20.到岸寺の大仏(木造大日如来坐像)については、改修中であったため、見学はできませんでしたが、かつての奥州街道をはじめとする町筋は依然として城下町当時を色濃く反映しているのを確認することができました。次回、受講者の皆様は、11月2日(土曜日)、飯坂の史跡と文化財を巡ります。

【開催報告】 ~信夫山公園開園150周年記念事業~ 講座信夫山物語 フィールドワーク「信夫山の史跡めぐり」

 令和6年9月28日(土曜日)、講座信夫山物語フィールドワーク「信夫山の史跡めぐり」を開催しました。
 信夫山は、昔から人びとの暮らしに深くかかわっており、信仰の中心地として多くの歴史・伝承・民話に彩られてきました。また、全国にもめずらしい街の真中にある里山として、豊かな自然環境を保ち、すぐれた展望や、健康と癒しを与えてくれています。
 今年度は「歴史」「植物」「地質」の3分野に分けて、3回の信夫山のフィールドワークを行います。
 初回である今回のフィールドワーク(「歴史」)は、元福島県遺跡の案内人会長 紺野義行さんを講師にお迎えし、信夫山の史跡めぐりを行いました。

 今回は、その一部を紹介します。

「信夫山の史跡めぐり」の日時等

1 日時

 令和6年9月28日(土曜日) 9時~12時

2 受講者

 18名

3 コース

  1. 駒山公園(スタート
  2. 祓川の石橋
  3. 太子堂駐車場
  4. 護國神社
  5. 黒沼神社
  6. 第一展望台(トイレ休憩)
  7. 薬王寺・薬師堂
  8. 念仏橋の板碑
  9. 御神坂
  10. 弘安の逆さ板碑
  11. 太子堂駐車場前(護國神社東側)(ゴール
地図
フィールドワークで回るコースを数字と赤い線を使って分かりやすく示した地図

4.フィールドワークの様子(一部)

駒山公園
駒山公園のベンチ前で挨拶をする講師と話を聞く受講者たちの写真
講師は、元福島県遺跡の案内人会長の紺野義行さんです。 スタート地点の駒山公園です。南側の階段を下がって、噴水広場に移動します。
祓川の石橋
芝生が綺麗な噴水公園内に架けられた祓川の石橋を説明する講師と話を聞く受講者たちの写真
噴水広場に保存されている祓川の石橋です。江戸時代に福島市の誇る作曲家、古関裕而の先祖・古関三郎治が寄進し、祓川に架けられた石橋です。この橋は市指定有形文化財です。
信夫山児童公園
信夫山児童公園内にある説明板の横でマイクを持って説明をする講師を撮影した写真
昭和15(1940)年、祓川河川改修によってできた土地を利用して作られた小公園です。以前は、小動物園もありました。
信夫山児童公園(東側から撮影)
信夫山児童公園脇の綺麗に整備された道路を撮影している写真
公園南側を流れていた祓川は暗渠となり、現在は道路の地下を流れています。
弁慶の足あと石
弁慶の足あと石がある苔の生えた岸壁を見る受講者たちの写真
太子堂駐車場に向かう途中、弁慶の足あと石を見つけました。これは、弁慶が釣鐘を担いでどんどん登ったら、岩の上にくっきりと足跡が残ったといわれ、巨大な足が三つ凹んで見えます。
大日堂跡
大日堂跡に集まり講師と受講者たちが話している様子を撮影した写真
太子堂駐車場の東側の一段低くなった広場は、かつて大日如来坐像が安置されていた大日堂跡です。明治14(1881)年4月の福島大火で大町の到岸寺は、あずかっていた古い杉妻大仏の胎内仏(仏像の腹の中に納められている小さな仏像)もろとも焼失しました。そこで、このお堂と仏像とも到岸寺(注釈)に移され現在は跡形もなくなってしまいました。
(注釈)参考:到岸寺
黒い屋根と白の壁が綺麗な到岸寺を正面から撮影している写真
到岸寺の大日如来坐像は高さが235センチメートルもあり、福島市の坐像の中では最大です。かつて大仏城にあった杉妻大仏を偲んで宝永年間(1704から1711年)に作られ、信夫山の大仏堂に安置されていました。 かつての杉妻大仏の胎内仏であった大日如来を福島大火で焼失したため、信夫山からこの大日如来坐像を大仏堂とともに到岸寺に移しました。
金色で光沢のある大日如来坐像を正面から撮影している写真
太子堂駐車場南側
大島要三の銅像前で説明をする講師と集まって話を聞く受講者たちの後ろから撮影した写真
駐車場の南側には、大島要三の銅像が立っています。大島は、信達軌道株式会社、福島電燈株式会社などの社長を歴任し、福島商工会議所の発起人代表や二代目会頭になり、福島町の経済発展に大きく貢献しました。また、福島競馬場の誘致に大きな働きをしました。
護國神社
護國神社の看板前で受講者に説明をする講師を撮影した写真

 護国神社入口

明治12(1879)年に、戊辰の役以降の国事で亡くなった県人をお祀りするために建てられた福島招魂社が昭和14年(1939年)に福島県護國神社と改称され、現在に至ります。現在も境内には慰霊碑・戦争碑などが点在しています。 現在の拝殿は昭和12(1937)年に建立されたもので、両側に翼廊のつく入母屋造りの神社建築です。本殿は流造で千木鰹木をのせています。
黒を基調に差し色に金色が使われた高級感のある護国神社を正面から撮影している写真

 護国神社正面

黒沼神社
黒沼神社の駐車スペースに集まり説明をする講師と聞く受講者たちを撮影した写真
欽明天皇の皇子である淳中太尊(ぬなかふとのみこと)は皇位継承の争いで破れ、陸奥に逃れて信夫山に住んだと伝えられます。欽明天皇の皇后であった石姫皇女(いしひめのひめみこ)は淳中太尊を訪ね来て、この地で亡くなったとされ、黒沼大神の祭神石姫命(いしひめのみこと)は石姫皇女を祀ったものです。 黒沼神社には福島藩主の板倉氏や近隣の商人などの絵馬が奉納されており、広く信仰されていたことがうかがわれます。
黒沼神社についての歴史が書かれた解説版を撮影した写真

 黒沼神社解説版

第一展望台に向う受講者の皆さん
第一展望台に向かって道路を歩いていく受講者たちを後ろから撮影した写真
黒沼神社の後、しばらく歩きます。第一展望台で休憩です。
第一展望台
街並みを見渡せる第一展望台で福島盆地について説明をする講師と話を聞く受講者たちの写真
第一展望台の駐車場で、市街地を眺めながら、講師の紺野義行さんから福島盆地の形成過程などの歴史について、説明をしていただきました。
薬王寺
薬王寺と大きく彫られた表札の前にある説明板を読む受講者たちを撮影した写真
羽黒山と羽山の間に、薬師の峯があります。その頂上にあるのが薬王寺と薬師堂です。青葉山信夫院薬王寺といい天台宗の古刹で、江戸時代初期には、福島藩主堀田正仲が福島城の鬼門の鎮とし、後には板倉藩の祈願寺となりましました。
薬師堂
木の本来の色で造られた薬師堂前で観察する受講者たちを撮影した写真
薬師堂は、青葉山中嶺坊「峯の薬師」といわれ、信達十二薬師の一番礼所を担っています。耳の病気に御利益があるといわれ、輪形の石が奉納されて、裏手には百庚申の石塔も数多く残っています。
念仏橋の板碑
草木の生い茂る道路脇に置かれた念仏橋の板碑を見る受講者たちの写真
薬師堂から御神坂へ向かう途中に念仏橋の板碑(写真右後方)があります。 (補足)念仏橋の板碑…以前信夫山北麓の御山字中屋敷の和泉川の橋に利用されていました。春と秋の彼岸には、この橋の上で念仏供養を行ったため、念仏橋といわれています。昭和6(1931)年に現在地に移されました。
御神坂
奥に赤く綺麗な鳥居が見える御神坂を歩いていく受講者たちを撮影した写真
正面に羽黒神社の鳥居があり、朱塗りであることから赤鳥居として親しまれています。
七曲坂登拝路との合流地点
七曲坂登拝路との合流地点にある石碑とのぼり旗を撮影した写真
石碑の在るところが、合流地点です。
天神宮
全てが石で造られた天神宮の鳥居を正面から撮影した写真
赤鳥居の西の石造りの社で、六供一宮院西坂家の持宮です。西坂氏は鳥居の守護役で、七曲坂を差配していました。当初は、一間社流造りでしたが、昭和13(1938)年に子孫不在となり現在の石造りとなりました。
羽黒観音
羽黒観音の坂の下を差しながら説明している講師と話を聞く受講者たちの写真
信達三十三観音の三番礼書であり、大正期に焼失しましたが、同時期に薬王寺住職山河意海師の発起によって再建されました。本尊は聖観音(観世音菩薩)でしたが、修験日光院の年次物であった木造如意輪観音坐像(市指定文化財)が迎えられて本尊とされています。
羽黒神社入口・弘安の逆さ板碑
羽黒神社入口にある階段前で弘安の逆さ板碑について説明する講師を撮影した写真
急峻な御神坂を登り切り、信夫山一周道路に着きました。 手前の階段は、毎年2月の「暁(あかつき)まいり」において大わらじが奉納される羽黒神社の入口になります(この日は、この神社には行きませんでした。)。 写真右上は、文政8(1825)年建立の弘安の逆さ板碑になります。よく見ると「弘安」の文字がさかさまに彫られていて、鎌倉時代の供養塔を再利用したものといわれています。
おわりに
曇り空と綺麗な街並みを見ながら福島盆地について説明する講師と聞く受講者たちを後ろから撮影した写真
帰りは、福島盆地を見ながら太子堂駐車場前(護國神社北側)に戻りました。 この日のコースは、信夫山の史跡の一部を見るものでしたが、見どころがたくさんあり、終了予定時間(正午)を少しオーバーしました。 次回は、「信夫山の植物」がテーマのフィールドワークです。

【開催報告】「福島の文化財」

 福島市歴史人材養成講座(公開)「福島の文化財」を開催しました。
 福島市には、先人が守り、今まで受け継がれてきた貴重な文化財が数多く残されています。
 現在、指定等を受けた文化財は、国指定等81件、県指定27件、市指定74件にのぼります。
 今回の講座は、福島市の歴史の「ふれあいボランティア」でもある郷土史研究 村上博彦さんを講師にお迎えし、福島市の文化財について講演いただきました。

1 日時

 令和6年9月7日(土曜日) 13時30分~15時

2 場所

 福島市市民会館第2ホール

3 受講者

 67名

講演に使用した「福島市 指定・登録文化財マップ」

福島市指定登録文化財マップの表紙

関連画像

講師の男性が壇上にあるマイクで受講者に説明をしている写真

 講師の郷土史研究家で、ふれあいボランティアでもある 村上博彦(むらかみ ひろひこ)さんです。

大勢の受講者が机に置かれた資料を見ながら壇上にいる講師の話を聞いている写真

 多くの市民の皆様に受講いただきました。

【開催報告】「西久保遺跡出土木簡を読み解く」

 福島市歴史人材養成講座(公開)「西久保遺跡出土木簡を読み解く」を開催しました。
 西久保遺跡は国道13号福島西道路改築工事に伴い、令和5年度から発掘調査を行っています(現在も継続中)。
 これまでの調査で、全国初の「鎮兵」の2文字が書かれた木簡、役所の役割を持つ有力者の居宅、東北地方初となる奈良時代の水場遺構などが発見されています。
 奈良時代から平安時代の竪穴建物跡、掘立柱建物跡、区画施設、水場遺構、土坑、溝跡、ピットなどの遺構、土師器、須恵器、中世陶器、木簡、金属器などの遺物が見つかっており、古代の信夫郡を語る上で貴重な遺跡であることがわかってきました。
 今回の講座は、同遺跡の発掘に携わっている福島市振興公社 文化財調査室 上田優喜さんを講師にお迎えし、西久保遺跡と周辺の遺跡、西久保遺跡から出土した木簡などについて、多くの写真などを用いて説明していただきました。
 現在、発掘調査が行われている遺跡についての講座でしたが、今後も、タイムリーな内容の公開講座を企画していきます。

1 日時

 令和6年8月10日(土曜日) 13時30分~15時

2 場所

 福島市市民会館第2ホール

3 受講者

 65名

関連画像

壇上に置いたパソコンの画面を見ながら受講者に説明をする講師の写真

講師の福島市振興公社 文化財調査室 上田優喜(うえだ ゆうき)さんです。

大勢の受講者がいる中、立って講師に質問をする女性を後ろから撮影した写真

多くの市民の皆様に受講いただきました。

工作講座「江戸時代の照明『行灯(あんどん)』を作ってみよう」を開催しました♪

 電力がなかった江戸時代の照明って?実際にミニサイズの「置き型行灯」を作ってもらい、行灯の種類や歴史を学んでいただくため、今回の工作講座を企画しました。
 開催当日は、保護者の皆様に付き添われた小学生の皆さんから一般の方までと数多く参加され、ふれあいボランティアにアドバイスを受けながら、行灯を作っていました。

1 日時

 令和6(2024)年8月3日(土曜日) 13時30分~15時30分

2 場 所

 福島市市民会館301号室

3 参加者

 19名

次のような「行灯(あんどん)」を作っていただきました。

鳥獣戯画の蛙の絵やカラフルな装飾のされた2つの行灯を撮影した写真
机に置かれた行灯を手に持ち受講者に作り方を教える講師を斜め前から撮影した写真

 考案と講師は、長年工作講座に携わっている福島市郷土史料室の酒井玲子です。

作業風景

女性が男の子のサポートをしながら一緒に行灯を作っている様子を撮影している写真
男性と女の子が行灯に付ける装飾をどれにするか楽しそうに話している写真
行灯の蓋の部分を慎重に作業している2人の女性と女の子を撮影した写真
行灯の骨組みを一生懸命作っている女の子と立って見守る女性の写真
装飾した行灯の紙と骨組みを慎重に組み合わせていく男の子と2人の大人を撮影した写真
男の子が行灯を作っている様子を横からじっと見ている男性の写真
親子が行灯につける装飾を何にするか机に並べて選んでいる写真
講師に教えてもらいながら行灯を作る女の子を横から見守る母親の写真
横にした段ボールの中に行灯を入れて明かりを付ける男の子を撮影した写真

完成です。明かりを灯してみました。(注意)明かりは、LEDを使用しています。

この記事に関するお問い合わせ先

市民・文化スポーツ部 文化スポーツ振興室 文化振興課 郷土史料室
福島市松山町39番地の1
電話番号:024-563-7858
ファックス:024-563-7858
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