縦長の木材で造られ「福島縣里程元標」と黒文字で縦書きに書かれた木柱の写真

 福島駅東口から駅を背にして歩くこと10分。日本銀行福島支店をはじめとする金融機関などが連なる「レンガ通り」を歩いていくと、「県庁通り」との交差点の手前左側にひときわ目立つ木柱が立っています。
 正面に大書してあるとおり、これが「福島縣里程元標(ふくしまけんりていげんぴょう)」です。その高さ3メートル60センチメートル、太さ30センチメートル角。福島市により平成30年3月に復元されました。

レンガで造られ白の小石が敷き詰められた上に「道路元標」と刻まれた標石の写真

 その後方の壇には、説明看板と並んで小振りな花崗岩(かこうがん)の標石が立っています。高さ55センチメートル、太さ25センチメートル角。正面には「道路元標」、右側面には「福島市」の文字が刻まれています。これが、大正時代に造られた「福島市道路元標(ふくしましどうろげんぴょう)」です。

福島市道路元標の歴史

ルーツは江戸時代の街道と高札場

右側にある福島城の大手門前の通りと奥州街道が交わる位置に「御札場」と表記されている絵図

大手門からの道が奥州街道と出合う場所に高札場の絵と「御札場」が表記

「享保二十年福島惣町絵図」(文化2年写、福島市教育委員会蔵)より

 元標が置かれたのは明治時代以降のことですが、福島市道路元標が「レンガ通り」と「県庁通り」の交差点に位置する理由は江戸時代に遡ります。
 江戸時代、福島城下は参勤交代で行き交う東北地方の大名や生糸・蚕種の購入のため全国から集ってくる商人、そして伊勢参りや江戸への遊山などを楽しむ庶民など、旅をする人々で賑わっていました。
 当時の旅人は、男性で1日10里(約40キロメートル)、女性で7~8里(約28~32キロメートル)ほど歩きましたが、歩いて旅をする人にとって目的地や次の宿場までの距離、つまり「里程」はとても重要な情報でした。当時、多くの旅の手引書が発行されていましたが、巻末には決まって街道ごとに宿場町間の里程表が掲載されていました。
 その里程の起点になっていたのは、法令や禁令を墨書した板を掲示する高札場で(こうさつば)した。福島城下では、奥州街道と福島城大手門からの道との交差点に高札場が設置され、この交差点は「札ノ辻(ふだのつじ)」と呼ばれていました。
 「レンガ通り」はかつての奥州街道、「県庁通り」が大手門筋で、「札の辻」が現在も元標が立つ交差点にあたるのです。

明治政府による各縣里程元標の建立

2階建ての洋風作りの郵便局前の通りの傍に福島縣里程元標が立っているノクロ写真

明治期の絵葉書/郵便局前より福島県庁を望む
左側に福島縣里程元標

 明治6年(1873年)2月、明治政府は、法令公布の方法を変更して江戸時代の高札場を撤去しました。
 また、同年12月の太政官達(注釈1)により、全国で統一した手法により距離を実測するとともに、各県庁所在地の交通の要所に里程標柱を立て、県内の街道の起点を示す元標としました。この里程標柱は、旅人によく目立つように、高さ1丈2尺(約3メートル60センチメートル)、1尺角(約30センチメートル角)の角材を使い、次の宿駅までの距離などが書かれていました。
 その後、明治8年(1875年)1月の太政官達(注釈2)により書式が改定され、正面には「○○縣里程元標」と書くようになりました。
 福島城内に本庁舎が置かれた福島県においては、高札場が置かれていた「札の辻」に里程元標が立てられ、ここを基準点として県内各町村までの里程が測られました。
 レンガ通りの歩道に立つ「福島縣里程元標」は、この明治期の標柱を原寸大で復元したものです(注釈3)。

  • (注釈1)明治6年12月20日太政官第143号。「各縣ハ共本廳所在地ニ於テ四達樞要ノ場所ヘ木標ヲ建テ之ヲ管内諸街道ノ元標ト可定事」。
  • (注釈2)明治8年1月19日太政官達199号。元標書式に「表面 何縣里程元標 何地」とあります。
  • (注釈3)書字内容は、「太政官達199号」(明治8年1月19日)の規定等から推定しました。また、里程は、「信達二郡村誌」(『福島市史資料叢書 第36輯』、福島市市史編纂委員会、昭和57年3月31日)によっています。

「福島市道路元標」は大正時代の道路法に基づいて造られた

2階建ての洋風作りの福島郵便局を通りを挟んだ反対側に赤丸で印された「福島市道路元標」があるモノクロ写真

昭和初期の福島郵便局(『福島案内』昭和6年)
左側に福島市道路元標が見える

 大正8年(1919年)5月の道路法と同年11月の道路法施行令により、市町村ごとに道路元標を設置することになりました(注釈4)。明治40年(1907年)に市制施行していた福島市の道路の起点は福島縣里程元標が置かれていた場所に、代わって設置されました。
 現在も残る「福島市道路元標」は、この旧道路法に基づき設置されたもので、交通機関の近代化とともに、歩いて旅する人々に目立つことよりも、交通の障害にならないようにとの配慮から、小振りな石柱になりました(注釈5)。

  • (注釈4)旧道路法(大正8年4月10日法律第58号)により「道路元標」が道路の附属物のひとつに定められ、同施行令(大正8年11月4日勅令第460号)により道路元標は各市町村に1つ置くこととされました。
  • (注釈5)道路元標の様式は内務大臣が定めることとされましたが、大正11年8月18日付け「内務省令第20号」で「石材其ノ他ノ耐久性材料ヲ使用」することとされ、そこに示されている形状は現存する福島市道路元標と同様のものです。

戦後の変遷

大きな道路を背に歩道に立つ福島市道路元標を写した写真

大町歩道上に立つ福島市道路元標
(平成29年2月撮影)

 明治期の福島縣里程元標と大正期の福島市道路元標が置かれた位置は、現在それらが立っているところと異なっています。元々の位置は当時の交差点の東側(現福島市上町)で、現在の交差点の中心付近(車道部)にあたります。
 昭和27年(1952年)に制定された道路法をはじめとする戦後の道路法令において、道路元標は引き続き道路の附属物とされていますが、道路の起終点は道路元標と関係なく決められるようになりました。道路元標の基準点としての役割や道路管理上の必要性、設置義務はなくなりました。

 そのようななか、昭和36年(1961年)、モータリゼーションの影響による「県庁通り」の拡幅改良の際に福島市道路元標は撤去されました。その後、昭和56年(1981年)に、レンガ敷きの歩道敷設を記念して、交差点に面した歩道上(旧粉又商店前)に再設置されました。これが最初の移設です。

 さらに、平成29年(2017年)大原綜合病院の新築移転に併せた再度の道路拡幅工事により、道路元標は一時撤去され、平成30年(2018年)3月に交差点の西側(福島市大町)の歩道上に移設されました。こうして現在の姿になったのです。

かつて福島城下の中心地、福島の一丁目一番地に立つ福島縣里程元標と福島市道路元標は、
江戸時代から現代へ幾重にも重なる福島のまちの歴史を想い起させてくれます。

「話す看板 Talking Signboard」AR音声画像ガイド(英語字幕付き)

 福島市道路元標と福島縣里程元標についての画像と音声による案内を、無料のスマートフォンアプリ(COCOAR2)で視聴することができます。ナレーションの英語訳字幕も付いています。

QRコードなどが書かれ携帯でダウンロードする方法を日本語と英語で説明している道路元標 話す看板の写真

福島市道路元標の移設・再整備 / 平成30年3月

 大原綜合病院の新築移転に併せた「県庁通り」(市道杉妻町・御山町線)の拡幅工事により、歩道上に設置されていた福島市道路元標の移設が必要になりました。
 移設にあたっては、道路元標が置かれた位置の歴史的意義を踏まえるとともに、まちなかの歴史スポットとして認知度を高め、住民の誇りとなるよう再整備を行いました。

福島市道路元標の移設

町中に設置された2つの説明看板の左側に福島市道路元標、前に福島縣里程元標が設置された写真

福島市道路元標(左)と福島縣里程元標(中央)

 一時撤去した福島市道路元標を再設置しました。
 再設置にあたって重視したのは、「札の辻」と呼ばれた旧奥州街道と大手門筋の交差点に面した場所に設置することでした。スペースの確保等の都合により東側から西側に移りましたが、歴史的な場所を臨む位置に再設置しました。

福島縣里程元標の復元

 福島市道路元標の移設と併せて、明治時代に設置されていた福島縣里程元標を復元しました。
 道路元標は小振りですが、里程元標は、明治初期という時代を反映して、徒歩の旅人にも目立つ様式でしたので、原寸大の復元により人目を惹く堂々としたモニュメントになりました。
 また、既存の照明施設を活用して、夜間はライトアップされます。

万世大路の選奨土木遺産認定プレートの設置

レンガで造られた台に白の小石が敷き詰められた台に黒の石碑と説明が書かれたプレートの写真

万世大路の選奨土木遺産認定プレートと説明看板

 明治時代に大工事により切り開かれた福島市と米沢市を結ぶ国道(万世大路)は、平成24年に土木学会から土木遺産に認定されました。
 福島縣里程元標・福島市道路元標は万世大路の起点でもあったことから、認定記念プレートを道路元標の移設・再整備と併せて設置しました。
万世大路については下記リンクをご覧ください

地元住民や関係団体等からの支援

後方に紅白幕が貼られた福島縣里程元標の前で6名の関係者の方々がテープカットをしている写真

除幕式/平成30年3月26日

 道路元標の移設・再整備には多くの地元関係者や関係団体からご支援いただきました。

  • 地元町会、地元事業者、郷土史家、街道や万世大路に関わる活動団体、国・県・市等による「福島市道路元標移設検討会議」で意見交換を行い、移設場所や整備内容の検討を行いました。
  • ヒノキ材の里程標柱、元標に関する説明看板等については特定非営利活動法人ストリートふくしま様よりご寄付いただきました。
  • 万世大路の説明看板については、一般社団法人東北地域づくり協会様よりご寄付いただきました。

福島市内の道路元標

 道路元標は大正時代の道路法令により、現在は合併により福島市となっている旧町村ごとに立てられ、現在でも市内に多く残存しています。

小泉明正氏『福島県の道路元標』

 大正9年の福島県告示第180号により設置したとされる400余箇所の全てを訪ね歩いた小泉明正氏(福島県いわき市)の『福島県の道路元標』(平成27年、歴史春秋出版株式会社)によれば、福島市内には、福島市道路元標のほか、次の24町村の道路元標が残っています(注釈1)。

  • 旧信夫郡
    飯坂町、瀬上町、渡利村、鎌田村、岡山村、余目村、中野村、清水村、大笹生村、笹谷村、庭坂村、庭塚村、野田村、佐倉村、大森村、松川村、金谷川村、杉妻村、鳥川村
  • 旧伊達郡
    東湯野村、湯野村、茂庭村、大久保村、青木村

(注釈1)瀬上町道路元標は、資料事故による倒壊後所在不明となり、現在残っているのは基部のみ。

西福島郷土史愛好会の調査

 西福島郷土史愛好会は市内の道路元標をすべて調査し、平成28年度から29年度にかけて福島市西学習センターにおいて資料展示しました(注釈2)。

(注釈2) 西福島郷土史愛好会によると、道路元標を確認できなかった旧荒井村(旧信夫郡)については、目増橋・向田橋の碑が、そこに刻まれた内容等から「みなし道路元標」であろうと推測されています。

地図

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建設部 路政課 建設総務係
福島市五老内町3番1号
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