「宮畑遺跡の謎」の情報を公開します

その1 直径90センチメートルの柱(縄文時代晩期)

なぜ直径90センチメートルもの巨大な柱を建てなければならなかったのか?

  1. 直径90センチメートルの柱
  2. 全国の縄文遺跡では
  3. 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)と埋甕(うめがめ、幼児の墓)
  4. 福島市内・県内の掘立柱建物
  5. なぜこれほど巨大な柱が

1.直径90センチメートルの柱

宮畑遺跡で発見された直径90センチメートルの柱を埋めた柱穴。柱穴の大きさは、直径約2メートル、深さ約2メートル。

柱材は残っていなかったが、直径90センチメートルの柱が据えられた痕跡が確認されている。

富山県の桜町遺跡(さくらまちいせき)で出土した縄文時代の柱を参考にすると、使われた柱は、地上部4メートル、地中部2メートルで全長6メートルとなる。

宮畑遺跡史跡整備事業では、直径90センチメートルの柱をクリ材の柱で復元しているが、柱1本の重量は3トンを超える。

人がすっぽり入るほどの深さの建物の柱を埋めた穴の写真

直径90センチメートルの柱を使った掘立柱建物
(人が入っている穴が柱穴)

地面に彫られた建物の柱のあとの写真

直径90センチメートルの柱を埋めた柱穴
(写真の中央の黒い土が柱の痕跡)

直径90センチメートルの太くて大きい柱が使われている掘立柱建物の写真

復元した直径90センチメートルの柱を使った掘立柱建物

掘立柱建物の復元に使われた直径90センチメートルの柱をメジャーで測っている写真

復元に使用した直径90センチメートルの柱(樹齢106年)

2.全国の縄文遺跡では

縄文時代の直径90センチメートルを超える柱は、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき、青森県青森市)、桜町遺跡(さくらまちいせき、富山県小矢部市)、直径90センチメートルの丸太を半截(はんさい、断面半月形)した柱が真脇遺跡(まわきいせき、石川県能登町)などが確認されているが、その出土例は少なく、東北地方南部では、福島県ではもとより、宮城県、山形県ではこれまでのところ確認されていない。

この巨大な柱は、どの集落にも存在したものでなく、生活を営む上で必ずしも必要なものでない。その構築には、特別な背景・要素と縄文人の精神が深くかかわり、縄文社会のきまりごとの中で必要とされたものと考えられる。

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物の写真

三内丸山遺跡で復元された大型掘立柱建物

3.掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)と埋甕(うめがめ、幼児の墓)

掘立柱建物は、中央の広場を囲んで4つのまとまりが確認され、直径90センチメートルの柱を用いた建物はAブロックに存在する。Aブロックでは直径60~90センチメートルの柱が用いられた建物が建て替えられて存続するが、他のブロックの掘立柱建物は直径20~30センチメートルの柱が用いられている。掘立柱建物の配置は計画的で、直径90センチメートルの柱はAブロックに存在することに意味がある。

掘立柱建物群の外側には、同時期の埋甕(幼児の墓)が十数基まとまる区域が点在している。埋甕群と掘立柱建物跡群は重複することはなく、掘立柱建物が集中するA~Dブロック周辺で埋甕群が確認され、掘立柱建物と埋甕には強い関連性とその配置に規則性が認められる。

掘立柱建物と埋甕の位置図

掘立柱建物と埋甕

4.福島市内・県内の掘立柱建物

福島市内の南諏訪原遺跡(みなみすわはらいせき)でも縄文時代晩期の掘立柱建物が確認され、宮畑遺跡の掘立柱建物同様に4本柱(1間×1間)を主体としている。

しかし、使用された柱の直径は30~50センチメートルで、宮畑遺跡に存在した直径60センチメートルを超える柱は使われていない。柱穴の深さも、南諏訪原遺跡では50~70センチメートル前後で、宮畑遺跡より浅い特徴がある。50~70センチメートルのものが多い。掘立柱建物の他に竪穴住居が確認されており、掘立柱建物は居住施設でないと考えられている。

下羽広遺跡(しもはびろいせき、郡山市)では、縄文時代晩期中葉の掘立柱建物が31棟確認され、やはり4本柱(1間×1間)の掘立柱建物を主体とするが、直径60センチメートルを超えるような巨大な柱を用いた建物は存在しない。

南諏訪原遺跡の全景を上空から撮影した写真

南諏訪原遺跡の全景

南諏訪原遺跡で発見された掘立柱建物の6つの大きな穴の中に人が立っている南諏訪原遺跡の全景を上空から撮影した写真

南諏訪原遺跡の全景南諏訪原遺跡で発見された掘立柱建物

5.なぜこれほど巨大な柱が

宮畑遺跡では、掘立柱建物が存在した時期に、居住施設と考えられる竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が長期間にわたり使用されていないことから、掘立柱建物は居住施設であった可能性も指摘されている。しかし、宮畑遺跡の整備では、掘立柱建物と埋甕(幼児の墓)との間に強い関連性があることから、掘立柱建物は非日常的な施設として復元整備を行っている。

縄文時代の伐採具は石斧(せきふ)であり、伐採は容易ではなかったと考えられる。また、切り出した木を構築場所まで運ぶのも、仮に3トンを超える重量であったとしたら、多くの人数を必要としたことは間違いなく、この柱を柱穴に据えるにも、多くの人数で引く道具が必要であったと考えられる。また、引くための道具が仮に綱であった場合、引っ張っても切れない強度が必要で、いったいどのようなものだったのだろう。

以上のように、直径90センチメートルの柱の伐採・運搬から据えつけまでには多くの労力を必要としたと考えられるが、なぜ、この巨大な柱を用いた建物は必要であったのだろうか?

そして、なぜ、県内の縄文遺跡では発見されていないのだろうか?

三内丸山遺跡の柱の切断痕
円柱状の三内丸山遺跡の柱の切断痕が透明な台のような上に置かれ、下からライトアップされている写真
桜町遺跡での復元の様子と完成した掘立柱建物
大きな柱に四方八方にロープが取り付けられている桜町遺跡での掘立柱建物復元の様子を写した写真
完成した桜町遺跡の掘立柱建物の写真
宮畑遺跡の直径90センチメートルの柱を使った掘立柱建物の復元工事
周りに足場が組まれ、クレーン車を使って掘立柱建物の復元工事が行われている写真
直径90センチメートルの2本の大きな柱の中央部分にもう1本の柱がH型になるように組まれ、その柱をクレーンで持ち上げようとしている掘立柱建物の復元工事の写真

その他

  1. 詳しくは『日本の遺跡17「宮畑遺跡 南東北の縄文大集落」』同成社
  2. 桜町遺跡
  3. 三内丸山遺跡
  4. 真脇遺跡

この記事に関するお問い合わせ先

市民・文化スポーツ部 文化スポーツ振興室 文化振興課 文化財保護活用係
福島市五老内町3番1号
電話番号:024-525-3785
ファックス:024-536-2128
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