【開催報告】郷土史料室出張展示「南奥文化博物館の思い出~創設70周年記念~」

 かつて、福島市霞町(橘高校の東側)に「南奥文化博物館」がありました。
創設者の宮内冨貴夫氏(1907―1958年)は、幼い頃から古銭などに興味を持っていて、昭和2(1927)年仕事の関係で長野県から福島市に移り住みました。
 少年時代から趣味で収集した民俗資料も多く、風俗資料などを加え幅広いコレクションとなりました。
 昭和29(1954)年5月、自宅に収蔵していた資料を「南奥文化博物館」として、自費で霞町に開館して公開し、市民をはじめ多くの人々に親しまれました。「お金の歴史」「時計の歴史」などの展示会も開催され、ノートを手にした子供達の姿がたえなかったといわれています。
 しかし、病気などにより閉館せざるを得なくなり、貨幣史資料、時の資料、灯火などに分類展示されていた貴重な資料は、昭和31(1956)年福島市に寄贈されました。
 現在、郷土史料室では寄贈された資料約15,000点を収蔵しており、定期的に行われる出張展示で展示しております。
 今年は、「南奥文化博物館」の創設70周年の記念すべき年ということもあり、宮内氏の寄贈された膨大な資料の中から、貴重な資料や過去の展示会で好評であった資料等、厳選して今回展示しました。

南奥文化博物館と書かれた門の奥に建っている南奥文化博物館の白黒写真

南奥文化博物館

  •  開館:昭和29(1954)年
  •  閉館:昭和31(1956)年

展示会場の様子

ケースの中に入った資料を見ている2名の方、車いすを押している女性と車いすに乗った男性がボードに展示されている資料を見ている写真
4名の方がそれぞれ壁やケースの中に入った資料を見ている写真
男の子が壁に展示されている資料を、男性がケースの中に入った資料を見ている写真

「南奥文化博物館の思い出~創設70周年記念~」の概要

1 期間

 令和6(2024)年11月12日(火曜日)から21日(木曜日)まで

2 時間

 9時~16時30分

3 会場

 AOZ(アオウゼ) 大活動室4

4 主な資料(展示物)

阿武隈川舟運圖(福島県指定重要文化財=福島市蔵)

 「阿武隈川舟運圖」は、軸装された紙本着色の巻物仕立てで、その寸法は幅30.9センチメートル、長さ13メートル39.7センチメートルである。製作者は江戸の廻船問屋上総屋幸右衛門と考えられる。絵師は不明である。阿武隈川の舟運を安全に運行できるように作られた水路図で、明和6~7(1769~70年)頃に作られた。
 福島城の南に隣接して設けられた「福島河岸」を起点とした阿武隈川下流舟運のうち、陸奥國伊具郡丸森村(現宮城県丸森町)の「水沢河岸」までの川筋を描いたものである。
 阿武隈川の流れを画面の中心にした構図で、両岸に連なる道沿いの集落は墨色に淡彩を施して仕上げ、梅と思われる明るい花木を点じている。簡単であるが、城下町や陣屋のある街村もよく特徴をつかみ、両岸に点在する社寺は勿論のこと、名のある史跡や名所なども、よく押さえて描かれている。舟運の積荷を上げおろしした場所(河岸)は明るい黄色の楕円形の中に河岸名を書き、幕領・私領の陣屋(代官所)は同じ黄色地の長四角形の中に書いて、一般的な集落とは区別している。
 特に阿武隈川の流れについては、よく緩急を捉えて表現されており、中でも、岩をかんで激流の泡立つ急所(これを土地の古老たちは今もなお滝と呼んでいる)については、水色に胡粉の白を利かして流れを強調し、滝壺や岩に砕け散る波は装飾的な巧みな表現で現わしている。そして、これらの瀬あり、滝あり、巻(渦巻)のある川の、どこを通るべきかを一筋の赤い線で示している。わけても流れの深いミヤウ(深い水路、澪をいう)については、渇水・満水の時期によってどちらを選んだらいいかの指示を示した個所もあり、まさに舟運のための本来の姿が顕著に発揮されている。
 さらに、こうした水路の目的として、多くの要所を占める「見付石」をはじめ、「〇〇滝」や「〇〇巻」を描き示して、難所を越える船路を明らかにしている。(本文ママ)

 「阿武隈川舟運図」(解説 大村三良)より

中央に阿武隈川、両岸に山や神社、道、家屋などが描かれている阿武隈川舟運図の写真
古代の貨幣

 殷(いん)時代の中国(紀元前1600年頃)には貝を貨幣とした「貝貨(ばいか)」というものがあり、南方の海から入手したタカラガイの貝殻を貨幣としていました。その名残りでお金に関するものには財・貨・買・貯など、「貝」の字が使われるようになりました。その後、石や獣骨で倣製貝貨が造られるようになりました。周代後期(紀元前1100年頃)になると青銅が貨幣に使われるようになり、タカラガイを模した銅の倣製貝貨も作られました。その後、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)になると鍬や鋤をかたどった「布貨(ふか)」(紀元前350年)、刀を模した「刀貨(とうか)」(銅製の尖首刀・円首刀・方首刀・反首刀など)が現れました。周時代末には丸形角穴の硬貨になり日本の貨幣鋳造に影響を与えました。
 貨幣が鋳造される以前の日本では、米、穀物、綿布、絹、食塩、鉄器、皮革などの生活必需品や勾玉などの装飾品を物々交換して生活していました。貨幣は物の交換媒体としての価値を持ち、社会に通用するものでなくてはいけません。また、その貨幣自体が本来交換されるものと同等の価値を持ち、絶対的な信用が求められます。そこではじめは貝や刀銭(青銅)などを貨幣とし、その後は金・銀・銅などの普遍的な価値を持つ金属が硬貨(砂金、銀塊も含む)の材料として用いられました。
 「和同開珎(わどうかいちん)」は奈良時代に律令政府が和銅元(708)年に初めて公銭として鋳造・発行したものです。和同銭を作るに際して重さを1匁(3.75グラム)、貨幣の直径は1文(2.4センチメートル)と規格が定められました。この時に決まった量目はその後銅銭の目方を決めるときの基調となりました。ところが和同銭の後の皇朝十二銭の時代になると、実際には1匁以下のものが多く、規定は必ずしも守られていませんでした。都では流通していた和同開珎ですが、地方では物々交換が主であったため、貨幣の流通に苦労したと言われています。当時は1文が米1升と言われていました。

中央に1本線の割れ目が入っている骨製貝貨の写真
左下の一部が掛けている方足布の写真
全体が円形で中央に四角い穴が開いている和同開珎の写真
江戸時代の貨幣

 江戸時代は、金貨・銀貨・銭貨の三貨を使用し、同価値に複数の貨幣がありました。「小判」1枚と「丁銀」(50~60匁)が同じ価値で、「一分金」と「一分銀」が同じ価値でした。庶民は、江戸時代初期まで輸入銭(永樂通寳)や「寛永通寳」、私造銭など多種多様の銅銭を使用していましたので、徳川家康は貨幣制度の統一のため、価値基準となる大判、小判、一分判金の3種類の「金貨幣」と丁銀、豆板銀の2種類の「銀貨幣」を製造しました。しかし時代が進むと、財政悪化のたびに順次改鋳して、金・銀の含有量を減らしたため貨幣の価値は次第に下がっていきました。江戸時代末期になると各藩では、流通貨幣の不足や天災・飢饉などを理由に、米、炭、銀等の兌換(だかん)紙幣である藩札を発行したり、大型銅銭を鋳造したりするようになりました。

長方形をし、淵の周りに花の模様のような物があしらわれた天保一分銀の写真
長方形の紙に文字と異なる種類の印鑑が複数押されている陸奥弘前藩銭札の写真
西郷札(さいごうさつ)

 西南戦争時に西郷隆盛率いる薩摩軍が軍費調達のために発行した軍用紙幣です。日本初の軍用手票(軍票)といわれていますが、反政府軍の薩軍が発行した紙幣のため、厳密には軍票に入らない、との見方もあります。明治10(1877)年に勃発した西南戦争で薩軍は当時の金額で70~100万円ともいわれる戦費が掛かったといいます。当初は用意していた官金15万円と、士族商社の証券の売却金を回し、さらに住民に警察費を納めさせるなどして賄っていました。しかし戦費不足が深刻化したため、桐野利秋が発案した軍用紙幣の発行を西郷隆盛らは決定しました。布製で耐水性のあるインクを使用、木版印刷で通用期間3年の不換紙幣でした。これが西郷札です。西郷札は明治10年7月7日から同月31日にかけて発行されました。券種は6種で拾円・五円・壱円・五拾銭・弐拾銭・拾銭が流通しました。総発行高は14万円とも、17万円とも言われています。西南戦争後は明治政府によって西郷札の使用は厳禁とされ、没収、破棄されました。市中に出回った西郷札の補償は行われず、特に西南戦争の戦場になった九州の地域には、経済に大混乱をもたらしました。それでも庶民の間では西郷隆盛の人気が高く、西郷札がお守りとして珍重されたということです。

長方形で上部に太陽のようなイラストと文字や印鑑が押され、一部に青色が塗られている西郷札の写真
錦絵(浮世絵版画)=江戸時代

 浮世絵とは、江戸時代に流行した当世風・享楽的な意味の風俗画のことで、評判美人の美人画、役者絵、芝居絵、武者絵など幅広い題材に満ちていました。江戸時代に誕生した日本画のジャンルの一つです。「浮世」とは元々、「現代風な」「当世風な」といった意味を持っており、浮世絵で描かれるテーマは、その時代の暮らし、風俗、流行が反映されています。つまり浮世絵は江戸時代から明治時代に描かれた風俗画のことでした。また「錦絵」は多色摺りの浮世絵木版画のことを指します。錦の織物のような華麗さが名前の由来です。錦絵は浮世絵の手法の一つということです。菱川師宣は、肉筆画や墨一色摺りで一般庶民の生活や遊女などを描き、浮世絵の始祖と呼ばれています。18世紀中頃までが浮世絵の初期といわれ、鳥居清長(とりいきよなが)、宮川長春(みやがわちょうしゅん)、奥村政信(おくむらまさのぶ)などが健康的な人物をおおらかに描きました。浮世絵は絵師、彫師、摺師の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることができたため、廉価で販売されるようになりました。初期の浮世絵版画は黒一色摺りの上から、紅がら・丹・黄土を手彩色しており、紅摺絵と(べにずりえ)呼ばれていました。明和2(1765)年に鈴木春信(すずきはるのぶ)を中心とする多色摺りの技術が飛躍的に進歩しました。浮世絵の版元が華やかな擦物を春信に依頼したことから、錦絵が完成しました。そんなことから鈴木春信は錦絵を大成させた、といわれています。これ以降が浮世絵中期と呼ばれています。喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)などの絵師によって人物描写が個性や心情に肉薄する傑作が生み出されました。役者や美人を題材にした大首絵、似顔絵などが発達しました。また後期の代表的な絵師の葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)、歌川国芳(うたがわくによし)らは風景画と花鳥画に新境地を打ち立てました。

江戸名所百人美女の浮世絵の画像
錦絵(浮世絵版画)=明治時代

 明治時代になると絵師たちは、洋風建築、汽車、洋装の紳士・淑女など文明開化の新様相を描写しました。錦絵は新聞用になって、芸術性は失われましたが、物語の挿絵などで活躍します。明治時代の有名な絵師は大蘇(月岡)芳年(たいそよしとし)、楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)などですが、小林清親(こばやしきよちか)は光と影を巧みに表現した風景版画で江戸から移り変わって行く東京の姿を表現しました。この当時庶民向けの総ルビ付き、ひらがな混じり雑報や連載小説など、娯楽中心の大衆新聞が登場します。「東京日日新聞」や「郵便報知新聞」などで、内容は事件もの、孝行美談、珍談奇問などでした。19世紀後半に、パリ万国博覧会(慶應3=1867年)に浮世絵も出品されジャポニスムブームが起こります。ゴッホやモネなど欧州の印象派の画家に大きな影響を与えました。

川の上に架かったアーチ状の端が描かれた摺上橋真景の画像
展示資料
交通

1

新鐵道唱歌 奥羽線

昭和4(1929)年4月8日

2

阿武隈川舟運図

江戸後期

3

日本鐡道氣車發着時刻及賃金表

明治22(1889)年7月8日

4

蒸気車

組上げ絵

5

のりもの尽

明治29(1896)年3月27日 ものづくし絵

遊具

6

押絵羽子板

演目「暫」の一場面

7

描絵羽子板

神功(じんぐう)皇后と応神天皇

8

豆満喜雙六

文久元(1861)年 一鵬斎芳藤画

9

東海道五十三驛遊山壽古録

明治19(1886)年10月 鹿斎春曉筆

10

雙陸獨稽古

文化8(1811)年

11

双六盤

年代不明

12

志ん板玩尽

ものづくし絵 國利画

13

漫画動物の國探険双六

昭和23(1948)年10月30日 中野正治作

14

独楽

木、鉄

15

銭独楽(寛永通寳四文銭)

貨幣を独楽に加工

16

貝合せ

10対 江戸時代?

17

凧絵の版木 金太郎と鯉

 

18

馬乗づくし

ものづくし絵 歌川芳虎画

19

新板浄瑠璃双六

一寳斎國盛画

20

假名手本誠忠壽古六

一雄斎國輝画

経済

21

和同開珎

和銅元(708)年

22

神功開寳

天平神護元(765)年

23

永楽通寳

天正期~元和期(1573~1623年)

24

天保丁銀

天保8(1837)年

25

天保一分銀

天保8(1837)年

26

天保通寳百文銭

天保6(1835)年 本座銭 長郭

27

貿易一圓銀

明治3(1870)年

28

五十銭銀貨

明治3(1870)年

29

太政官札 五両

明治元(1868)年5月25日

30

民部省札 二分

明治2(1869)年11月15日

31

新紙幣 金十圓

明治5(1872)年6月25日

32

日本銀行兌換銀券旧一円券

明治18(1885)年9月8日

33

越中富山藩銭札 銭一貫文

江戸時代 藩札

34

陸奥弘前藩銭札 銭二十目

明治?年酉9月 藩札

35

西郷札 一圓

特殊紙幣 明治10(1877)年6月発行

36

駿河島田札 百文

明治2(1868)年 午7月限 宿場札

37

中国貨幣 骨製貝貨

殷時代(紀元前1400年頃)

38

中国貨幣 方足布

春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年頃)

絵銭

39

六歌仙銭

年代不明

40

七福神銭

年代不明

41

会津虎銭

明治45(1912)年

42

神馬銭

年代不明

信仰

43

絵心経

年代不明

44

魔訶般若波羅密多心経

年代不明折帳

錦絵

45

摺上橋真景

明治6(1873)年12月吉日

46

江戸名所百人美女

江戸時代 豊國画

47

廣告

明治時代 記「若松七日町 斗量売捌所高野屋」

48

石版彫刻印刷業廣告

明治時代 記「岩代國若松町大字上桂林寺町三芳堂」

49

婦人諸禮式の図 婚禮

明治33(1900)年1月1日 楊州画

灯り

50

有明行燈

年代不明

51

角行燈

年代不明

52

提げ行燈

年代不明

報道

53

福嶋民報第1号(写真で展示)

明治25(1892)年8月1日

54

福島民報第5776号

明治44(1911)年3月25日

55

鎮撫 鹿兒嶋新聞

明治9年2月15日

56

東京日日新聞第261附録

明治6(1873)年1月13日大礼服・通常礼服について

その他

57

南奥文化博物館 参観の栞

昭和29(1954)年

【開催報告】郷土史料室出張展示「写真展 根子町人形」

 今回の写真展で、「福島にこんな土人形あったなんて、知らなかった!」と会場にお越しになった多くの方々からお話をいただきました。
 この根子町人形は、江戸時代奥州街道の宿場町であった清水町宿の土産物として造られた土人形です。
 根子町人形は、江戸時代から大正時代初期頃までおおよそ120年間造り続けられましたが、鉄道の開通とともに、宿場機能が失われ、土産物として売られた根子町人形は廃絶し、「幻の土人形」となってしまいました。
 しかし、近年、根子町人形の再現製作を始めた方がいらっしゃいます。幸田冬子さんです。写真のほか、幸田さん製作の再現作品も展示しました。
 今後、根子町人形が「幻の土人形」から「蘇る土人形」になることを願ってやみません。
 ここでは、「写真展 根子町人形」を簡単に振り返りたいと思います。

「根子町」とは? 松が多い山林を切り開いて造った奥州街道の道筋は、松の根が多く歩くのが大変だったので、伊達政宗が「根子町」と名付けたと伝えられています。 比較的早い時期に清水町村と改称されたにもかかわらず、「根子町」の愛称は絶えませんでした。
清水町駅宿場略図と屋号をもつ家を示した地図
カーブになった道路の両側に住宅が立ち並び、左側には石灯籠が見える現在の清水町の写真

 現在の清水町(令和6年9月撮影)

会場の様子

3名の方が広い室内の中央に展示されている資料をそれぞれ見ている写真
4名の方がパネルに展示された資料を見ている写真
4名の方がそれぞれ立ち止まりパネルに展示されている資料を見ている写真

「写真展 根子町人形」の概要

1 期間

 令和6(2024)年9月3日(火曜日)から12日(木曜日)まで

2 時間

 9時~21時

3 会場

 AOZ(アオウゼ) エントランスギャラリー

4 展示した主な写真

着物を着て左手に扇を持ち、右手を頭の後ろに添えたポーズをとっている官女の舞の人形の写真
官女の舞 時代不明 仙台屋作 [高さ155ミリメートル 幅110ミリメートル 奥行60ミリメートル] 官女とは、宮中に仕える女性のことです。左手に扇を持ち、右手を頭の後ろに添えたポーズは、優美で華や かです。
大鯛の背に乗った恵比寿の人形の写真
鯛乗り恵比須 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ110ミリメートル 幅 150ミリメートル 奥行55ミリメートル] 袖をまくりあげて大鯛の背に乗った恵比寿を表現しています。彫りの深い型で、胡粉(ごふん)も良質です。筆で太く描いた目の表情、緋色や波の色彩も良い作品です。
鯛を担いでいる童子の人形の写真
鯛かつぎ童子 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ120ミリメートル 幅 150ミリメートル 奥行60ミリメートル] 鯛の剥落がやや目立ちますが、太筆で描いた童子の表情が良い作品です。
恵比須が福禄寿を背負って川を渡る場面を表現している人形の写真
二福神川渡り 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ143ミリメートル 幅 90ミリメートル 奥行58ミリメートル] 恵比須が福禄寿を背負って川を渡る場面を表現しています。堤人形の同種作品よりも優れた型で、彩色・面相も良い作品です。
中央に鯛、左側に頭巾を被った大黒天、右側に風折烏帽子を被った恵比寿の人形の写真
二福神鯛かつぎ 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ105ミリメートル 幅 150ミリメートル 奥行50ミリメートル] 大きな獲物に喜ぶ二福神の表情が良い作品です。頭巾を被っているのが大黒天、風折烏帽子(かざおりえぼし)を被っているのが恵比須です。
小鼓を持っている人形の写真
小鼓 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ113ミリメートル 幅 150ミリメートル 奥行60ミリメートル] 五人囃子の小鼓です。軽妙な表情が良い作品です。小袖に根子町人形独特の蕨手(わらびて)文様が描かれています。
軍配を持って赤いひょうたんに乗っている童子の人形の写真
ひょうたん乗り童子 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ100ミリメートル 幅80ミリメートル 奥行50ミリメートル] 形態、彩色が良く、童子のすまし顔が面白い作品です。堤人形に似た作品があります。
重ねた丸餅を乗せた三宝を持つ女性の人形の写真
重ね餅 江戸時代後期 仙台屋作 [高さ168ミリメートル 幅 90ミリメートル 奥行55ミリメートル] 重ねた丸餅を乗せた三宝(さんぽう)を持つ女性は、浮世絵から抜け出したようです。極度の細書きの面相、梅と松葉くずしの文様、ともに達者な筆使いです。平面的、絵画的表現で、同種の堤人形とは全く異なります。
裃を着て座っている人形の写真
坐り裃 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ120ミリメートル 幅 160ミリメートル 奥行70ミリメートル] 古型を用いており、襟元、袴の襞(ひだ)まで立体的に表現されています。右手に扇は持っていませんが、五人囃子の謡(うたい)かもしれません。裃
犬の上に乗っている童子の人形の写真
犬乗り童子 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ83ミリメートル 幅80ミリメートル 奥行30ミリメートル] 童子が乗っている犬は、日本原産の小型犬である狆(ちん)です。黒く垂れた耳や穏和な顔つきがよく表現されています。
三つ巴が描かれた太鼓を叩いている太鼓打童子の人形の写真
太鼓打童子 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ90ミリメートル 幅85ミリメートル 奥行40ミリメートル] 三つ巴の太鼓を叩く童子を主題とした作品は、他の産地でもよく見られます。服装の雰囲気から、唐子(からこ)かもしれません。
全身が赤く塗られ、熊を抱いている熊抱き金時人形の写真
熊抱き金時 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ100ミリメートル 幅 100ミリメートル 奥行50ミリメートル] 端午の節句に贈られることが多かった金太郎の人形は、全身が赤く塗られていることが多いです。これは、血色の良い元気な子どもを表しているだけでなく、痘瘡(とうそう)よけのまじないの意味もあります。
亀の背に乗った大黒が、高々と大鯛を担ぎあげている亀乗り鯛かつぎ大黒の人形の写真
亀乗り鯛かつぎ大黒 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ168ミリメートル 幅 105ミリメートル 奥行50ミリメートル] 亀の背に乗った大黒が、高々と大鯛を担ぎあげている様子を表現しています。面相は軽妙に描かれています。
頭巾を被り、右手に小槌、左手に袋を持ち、米俵に乗った俵乗り大黒の人形の写真
俵乗り大黒 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ110ミリメートル 幅 90ミリメートル 奥行58ミリメートル] 頭巾を被り、右手に小槌、左手に袋を持ち、米俵に乗った大黒天を表現しています。やや太目の筆使いで軽妙に描かれています。
黒い馬に乗り、ひげを生やし、縁取りのはっきりした目とへの字口で、勇ましい姿をした熊谷直実の人形の写真
熊谷直実(くまがいなおざね) 江戸時代末期~明治時代 仙台屋作 [高さ175ミリメートル 幅 145ミリメートル 奥行60ミリメートル] 熊谷直実は、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取った源氏方の武将です。退却しようとしていた敦盛を日の丸の扇で呼び戻す場面を描いています。黒い馬に乗り、ひげを生やし、縁取りのはっきりした目とへの字口で、勇ましい姿を良く表現しています。
大きな頭の正座をした男性をかたどった幸福を招く縁起人形福助の人形の写真
福助(ふくすけ) 明治時代 吉野屋作 [高さ180ミリメートル 幅 160ミリメートル 奥行95ミリメートル] 福助は、大きな頭の正座をした男性をかたどった幸福を招く縁起人形です。肉厚なので、タネ(原型)に彩色した見本かもしれません。どっしりした見事な作品です。
金色の冠をかぶり、桑の枝を持っている蚕神の人形の写真
蚕神(かいこがみ) 明治時代末期~大正時代 仙台屋作 [高さ170ミリメートル 幅 100ミリメートル 奥行50ミリメートル] 蚕神は、明治30年代の養蚕業の最盛期に量産されました。仙台屋の蚕神は、金色の冠(かんむり)をかぶり、桑の枝を持っています。
6体の蚕神の人形が並び、中央に金色の金色姫がいる蚕神群像の人形の写真
蚕神群像(かいこがみぐんぞう) 明治時代末期~大正時代 吉野屋作 仙台屋とは異なる蚕神が数点残されています。中央の金色の人形は、「金色姫 (こんじきひめ)」です。蚕神の製作を最後に、根子町人形は衰退していきました。

5 展示した再現作品(製作:幸田冬子さん)

右足を踏み出した瞬間の構図をとらえた静御前を再現した人形の写真
静御前(しずかごぜん)根子町人形再現作品 令和5年(2023年) 幸田冬子(こうだふゆこ) 作 [高さ125ミリメートル 幅 90ミリメートル 奥行42ミリメートル] 福島県立博物館所蔵(梅宮茂旧蔵)の静御前を参考に再現した作品です。原資料は右足を踏み出した瞬間の構図をとらえた見事な作品ですが、剥落が目立ちます。再現作品の衣装の染料には蘇芳(すおう)が使われています。
袖をまくりあげて大鯛の背に乗った鯛乗り恵比寿を再現した人形の写真
鯛乗り恵比須 根子町人形再現作品 令和5年(2023年) 幸田冬子(こうだふゆこ) 作 [高さ98ミリメートル 幅 143ミリメートル 奥行38ミリメートル] 福島県立博物館所蔵(梅宮茂旧蔵)と福島市郷土史料室蔵(大村三良旧蔵)の鯛乗り恵比須を参考に再現した作品です。原資料は、袖をまくりあげて大鯛の背に乗った恵比須で、比較的剥落が目立ちません。再現作品は、墨の黒がきいていて、表情も良いです。
幸田冬子さんのプロフィール 福島県いわき市生まれ。10年ほど前からオリジナルの土人形を製作販売。福島県でも江戸期に土人形が作られていたことを伝えたく根子町人形の 再現製作及び調査活動を始める。現在東京在住。

展示写真等一覧

展示写真等一覧表

No.

資料名

時代

備考

1

木彫大黒天像(もくちょうだいこくてんぞう)

文化11年(1814)12月

仙台屋 初代吉郎次作 原資料:出雲大神宮蔵

2

奉納絵馬「海波旭日飛鶴図」(かいはきょくじつひかくず)

文政8年(1825)8月

仙台屋 初代吉郎次作 原資料:出雲大神宮蔵

3

花笠 根子町人形

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

4

花笠 堤人形

時代不明

作者不明

5

女雛

江戸時代後期

仙台屋作

6

女雛

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

7

女雛

明治時代末期~大正時代

仙台屋作

8

男雛

明治時代末期~大正時代

仙台屋作

9

小鼓

江戸時代後期

仙台屋作

10

小太鼓

江戸時代後期

仙台屋作

11

坐り裃

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

12

坐り裃

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

13

坐り童子

時代不明

仙台屋作

14

坐り童子

時代不明

仙台屋作

15

ひょうたん乗り童子

江戸時代後期

仙台屋作

16

犬乗り童子

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

17

太鼓打童子

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

18

熊抱き金時

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

19

鯛かつぎ童子

江戸時代後期

仙台屋作

20

鯛乗り恵比須

江戸時代後期

仙台屋作

21

亀乗り鯛かつぎ大黒

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

22

二福神鯛かつぎ

江戸時代後期

仙台屋作

23

二福神川渡り

江戸時代後期

仙台屋作

24

俵乗り大黒

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

25

天神

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

26

熊谷直実(くまがいなおざね)

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

27

熊谷直実(くまがいなおざね)

時代不明

仙台屋作

28

敦盛(あつもり)

江戸時代末期~明治時代

仙台屋作

29

仁田四郎(にったしろう)

時代不明

仙台屋作

30

官女の舞

時代不明

仙台屋作

31

重ね餅

江戸時代後期

仙台屋作

32

蚕神(かいこかみ)

明治時代末期~大正時代

仙台屋作

33

随身(ずいじん)

江戸時代末期~明治時代

吉野屋作

34

三番叟(さんばそう)

江戸時代末期

吉野屋作

35

獅子頭持(ししがしらも)ち三番叟(さんばそう)

明治時代末期~大正時代

吉野屋作

36

福助(ふくすけ)

明治時代

吉野屋作

37

蚕神群像(かいこがみぐんぞう)

明治時代末期~大正時代

吉野屋作

38

「犬乗り童子」タネ(原型)部分

時代不明

仙台屋作

39

「熊金」タネ(原型)部分

時代不明

仙台屋作

40

官女の舞 雌型(めがた)

時代不明

仙台屋作 (補足)実物展示

41

静御前(しずかごぜん) 根子町人形再現作品

令和5年(2023年)

幸田冬子作 (補足)実物展示

42

鯛乗り恵比須 根子町人形再現作品

令和5年(2023年)

幸田冬子作 (補足)実物展示

43

鯛乗り恵比須(製作過程)根子町人形再現作品

令和5年(2023年)

幸田冬子作 (補足)実物展示

【開催報告】郷土史料室出張展示「昔の暮らしと道具展」

 福島市郷土史料室には、市民の方々から多くの昔の道具が寄贈されており、今回の展示は、これらの資料を展示することで先人たちの知恵や工夫、どのように生活していたか伝えるため企画したものです。また、展示内容が小学校の教科書で紹介されているものであることから、小学生にも親しみのある内容でした。
 大人にとっては懐かしさがあり、子どもにとっては体験できるものであったので、これまでにない多くの方々に来場いただきました。ありがとうございました。
 今回の展示に関し、皆様からいただきましたご意見につきましては、今後の企画の参考にさせていただきます。

展示会場の様子

台の上に展示されている昔の暮らしの道具を鑑賞している来場者たちの写真
小上がりになった場所に展示されている昔のテレビは扇風機、時計などを鑑賞している来場者たちを後方から写した写真

1 期間

 令和6(2024)年7月2日(火曜日)から11日(木曜日)まで

2 時間

 9時~16時30分

3 会場

 AOZ(アオウゼ) 大活動室4

4 主な資料(展示物)

羽釜と木のふたの写真
羽釜 ごはんを炊くだけでなく、お湯を沸かすときや、豆を煮るときなどにも使われました。羽(つば)はかまどに引っかけるためだけでなく、羽から上はごはんを蒸らすとき、水蒸気がこもる空間です。羽より上に、お米は入れないようにします。釜ふたは、吹き上がる蒸気をおさえるために、重くて厚い木のふたが必要でした。
藁で作られたおひつ入れの中に入っているおひつの写真
おひつ入れとおひつ たきあがったごはんを羽釜から移し入れる容器です。余分な水分をにがし、おいしく保つことができます。おひつ入れは薬で作られており、冬はこれに入れて保温性を高めました。
全体が白色をした電気炊飯器の写真
電気炊飯器 羽釜でごはんを炊くのは火加減などが難しかったです。しかし電気炊飯器の登場で電源を入れるだけで、ごはんが炊きあがったのでとても楽になりました。左の電気炊飯器は、昭和43年(1968)頃発売されたものです。
円柱形でシルバーの蓋と持ち手が付いた保温ジャーの写真
保温ジャー ごはんを温かく保温するガラス魔法瓶です。できるだけ温かく保温するために、最初にお湯を入れるなど工夫をしました。このジャーは保温性が低く、ガラス製で割れやすいことから、次第に使われなくなりました。
上部の中央に刃が付いた木製の鰹節削りの写真
鰹節削り 刃を手前に向けて、おし出すように削り、引き出しを開けて削り節を取り出します。削り節は、毎回、使う分だけ削りました。削り終わった鰹節は引き出しに入れておきます。
赤色で、2枚焼くことが出来るポップアップ式のトースターの写真
トースター 昭和30年代(1955~1964)頃から朝食でパンを食べるようになってきました。上の写真はポップアップ式トースターと呼ばれるもので、食パンを焼く家電製品です。食パンを2枚、両面焼きすることができ、焼きあがると食パンが跳ね上がってきます。
注ぎ口部分がペリカンのくちばしに似た、全体に光沢のある魔法瓶の写真
魔法瓶 頭の部分がペリカンの「くちばし」に似ていることから「ポットペリカン」と名付けられ、昭和23年~31年 (1948~1956)まで販売されていました。『昔のくらしの道具事典』より
4本脚がついている白黒テレビの写真
白黒テレビ 昭和30年(1955)頃に4本脚のテレビが流行しました。脚は取り外しができ、ネジを本体に差し込むものが多かったです。カラー放送は昭和35年(1960)にはじまります。当時、カラーテレビは値段が高かったので白黒テレビを買う家庭が多かったです。昭和48年(1973)にカラーテレビが白黒テレビを追い抜きました。
本体に1から0の数字が書かれたダイヤルがある黒電話の写真
黒電話 使いかたは、受話器を持ち上げ「ツー」という音が聞こえたら、かけたい番号の番号穴に指を入れて指止めまで回します。回しきったら、指をはなします。これを繰り返すと電話がかかります。
上段に氷を入れるドアがある木製の氷冷蔵庫の写真
氷冷蔵庫 上段に氷をいれて食品を冷やしました。氷がとけると、水抜き用のパイプから水が外に流れる仕組みになっています。冷蔵庫は夏に使い、冬は寒いので使わなかったようです。大正時代から昭和30年代頃まで使われていました。
まわりが金網で囲まれ、2段の棚になっている蝿帳の写真
蠅帳 料理したものや食べ残したものに、蝿が近寄らないようにするための棚です。棚のまわりを金網で囲み、通気性をよくし、食べ物が悪くなるのを防ぎました。長時間入れて置かず、長くても一晩くらいです。夏場には欠かせないものでした。
側面に空気穴、新しい空気を入れる煙突がある炭火アイロンの写真
炭火アイロン 熱い炭をアイロンの中に入れて、その熱とアイロンの重さで服のしわを伸ばしました。炭火が消えないように側面の空気穴と新しい空気を入れる煙突があります。明治時代に外国から入ってきて、電気アイロンができる昭和初めころまで使われていました。
たらいと、たらいの中に置かれた洗濯板の写真
洗濯板とたらい たらいに石けん水を入れ、洗濯物をよくひたし、手のひらに入るくらいの大きさに丸め、洗濯板の上でもみ洗い します。洗濯板は、江戸時代末から明治時代初めにヨーロッパから入ってきたといわれています。
下部が四角い箱型で右側にハンドルが付き、上部に大きなホーンが付いているラッパ型蓄音機の写真
ラッパ型蓄音機 大きなホーン(ラッパ)がついているのは、良い音と大きな音が出るようにするためです。それが次第に、美しく花開いた豪華なホーンが作られるようになりました。写真の蓄音機は精工舎(現セイコーグループ株式会社)のものです。
ハンドポンプのような形状で、先端に薬を入れる丸いパーツが付いている殺虫剤噴霧器の写真
殺虫剤噴霧器 丸い部分に薬を入れ、空気ポンプと同じように押すと、薬がとびます。勢いよく押すと遠くまで飛びました。 昭和 4年~昭和60年頃(1929~1985)まで販売されていました。

展示資料(順不同)

【洗濯道具】

No

資料名

1

たらい

2

洗濯板[せんたくいた]

3

せっけん箱[せっけんばこ]

4

木の洗濯バサミ

5

電気洗濯機[でんきせんたくき]

6

電気脱水機[でんきだっすいき]

【衣服の道具】

No

資料名

7

裁縫箱[さいほうばこ]

8

火のし

9

こて・袴用こて[はかまよう]

10

炭火アイロン[すみび]

11

電気アイロン[でんき]

12

足踏みミシン[あしぶみ]

13

折りたたみ式くけ台・かけ針

【夏の道具】

No

資料名

14

ハイトリック(蝿取器)[はえとりき]

15

殺虫剤噴霧器[さっちゅうざいふんむき]

16

蝿取器(ガラス製)[はえとりき]

17

蚊帳[かや]

【冬の道具】

No

資料名

18

あんか

19

豆炭あんか[まめたん]

20

電気あんか

21

置きごたつ[おきごたつ]

【昭和30年代頃の茶の間】

No

資料名

22

蝿帳 [はいちょう]

23

扇風機[せんぷうき]

24

魔法瓶[まほうびん]

25

レコードプレーヤー

26

トランジスタラジオ

27

薬箱[くすりばこ]

28

湯呑み茶わん[ゆのみちゃわん]

29

茶筒・急須[ちゃづつ・きゅうす]

30

ちゃぶ台

31

レコード

32

黒電話[くろでんわ]

33

白黒テレビ

34

ブタの蚊取り線香[かとりせんこう]

35

掛け時計[かけどけい]

【日常を楽しむ】

No

資料名

36

ラッパ型蓄音機[らっぱがたちくおんき]

37

蓄音機[ちくおんき]

38

携帯用電動式蓄音機[けいたいようでんどうしきちくおんき]

39

電池式真空管ラジオ[でんちしきしんくうかん]

40

真空管ラジオ[しんくうかん]

41

卓上型真空管ラジオ[たくじょうがたしんくうかん]

【台所の道具】

No

資料名

42

炭取[すみとり]

43

火箸[ひばし]

44

附木[つけぎ]

45

附木入れ[つけぎいれ]

46

火おこし

47

羽釜[はがま]

48

ささら

49

一升桝・斗掻[いっしょうます・とかき]

50

五合桝[ごごうます]

51

電気炊飯器[でんきすいはんき]

52

おひつ・しゃもじ

53

おひつ入れ・おひつ

54

保温ジャー[ほおん]

55

三段せいろ[さんだん]

56

しょうゆ徳利[とっくり]

57

酢徳利[すとっくり]

58

かめ

59

片口[かたくち]

60

鰹節削り[かつおぶしけずり]

61

菜切り包丁[なっきりぼうちょう]

62

まな板[いた]

63

アルマイト製の弁当箱[べんとうばこ]

64

盆ざる[ぼん]

65

六つ目編みざる[むつめあみ]

66

すいのう

67

しゃくし

68

心太突き[ところてんつき]

69

トースター

70

氷冷蔵庫[こおりれいぞうこ]

71

電気冷蔵庫[でんきれいぞうこ]

【写真】

No

資料名

72

市民の憩いの場として親しまれた「隈畔」

73

にぎわう福島児童公園

74

中合デパート屋上にあった遊園地

【ちらし】

No

資料名

75

ナショナル 炊飯器

76

ナショナル 電機洗濯機

77

ナショナルダブルモーション式電気洗濯機

78

わかさや呉服店 蚊帳の広告

【昭和30年代雑誌・絵本】

No

資料名

79

週刊平凡 特大号 昭和35年12月

80

週刊平凡 新装デラックス号 昭和37年9月

81

週刊明星 特大号 昭和37年11月

82

絵本 『いぬとねこ』

83

絵本 『きんたろう』

【昭和50年代雑誌】

No

資料名

84

月刊明星 5月号 (昭和53年)

85

月刊明星 6月号 (昭和53年)

86

月刊明星 7月号 (昭和53年)

87

月刊明星 6月号 (昭和55年)

88

月刊明星 7月号 (昭和55年)

この記事に関するお問い合わせ先

市民・文化スポーツ部 文化スポーツ振興室 文化振興課 郷土史料室
福島市松山町39番地の1
電話番号:024-563-7858
ファックス:024-563-7858
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