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更新日:2017年3月1日

近・現代のふくしま

明治になって信達地方は、全国の例にもれず明治元(1868)年の神仏分離令(廃仏毀釈令)、明治5(1872)年の学制発布、同年の戸籍作成、太陽暦の採用、翌年の郵便事業の官営化、明治8(1875)年の警察規則公布による警察制度などめまぐるしく改革がなされ、明治12(1879)年福島町に信夫郡役所が置かれ各方部には戸長役場が置かれました。

明治初期、福島は、河野広中らによる自由民権運動が全国に先駆けて広がり、強引な三島県令と河野県会議長が対立し福島事件が起こりました。

また経済は、江戸時代から養蚕・製糸業が盛んで商業の町として賑わい、その取引は東北の中心としての位置を占めていたため、日本銀行出張所が東北で最初に開設されました。

明治14(1881)年には甚兵衛火事があり、その教訓から道路の整備が進みました。なお鉄道は明治20(1887)年東京と福島が結ばれ、さらに明治24(1891)年には東北本線が青森まで伸び、ここに阿武隈川の舟運は完全に終焉しました。そして明治32(1899)年奥羽本線、磐越西線の開通で鉄道輸送全盛の時代に入り、東北の玄関にあたる福島は、生糸・米の集散地として、ますます賑わいました。

明治22(1889)年には、福島町に曾根田村と腰浜村の一部をあわせて、町制が施かれました。明治27(1894)年に福島蚕糸米穀取引所が開業し、翌年福島電燈株式会社により電気が供給され、多くの株式・合資会社など商業系の会社が生まれました。やがて製造工場もでき、明治41(1908)年になると、208台の織機を持つ福島羽二重株式会社が操業を開始しました。

この間、自然災害では、明治26(1893)年に吾妻山が噴火し信達地方に火山灰を降らせ、荒川に土砂が流れ込みました。台風や遅霜による養蚕(ようさん)の被害も相次ぎ、明治38(1905)年の冷害は凶作を生み、日露戦争と重なって人々の暮らしを苦しくしました。信達地方からハワイ移民が多く出たのもこの時期です。

東北本線と奥羽本線の分岐点として交通・流通の重要な位置を占め、さらに養蚕・製糸・織物をもとにした産業・経済の発展をみた福島町は、市制施行への気運が高まり、浜辺村、清水村の一部との合併を経て明治40(1907)年に、福島市が誕生しました。同年福島電話局が電話交換の仕事を開始し加入者は194人でした。また同年に信達軌道株式会社が設立され、翌年の4月に福島-長岡-飯坂間、7月に長岡-保原間に石炭を動力とした軽便軌道車が走りました。また、大正13(1924)年福島-花水坂間に、飯坂電車株式会社によって電車が走ることとなります。

大正7(1918)年には、福島競馬場が開設され、昭和27(1952)年の国体馬術競技会場となっています。

昭和5(1930)年頃から、東北では世界的な不況や冷害の影響を受け、農家の生活は苦しくなり離農・出稼ぎ・移民(国外)が増えました。しかしハワイなどの日本人移民が受け入れられなくなると、翌年成立した満州国への開拓渡航者が増えました。

太平洋戦争中は、ノートルダム修道院が捕虜収容所になり、渡利に原子爆弾の模擬爆弾が投下されました。

戦後の復興が進み、高度経済成長時代の昭和41(1966)年には、国道13号信夫山トンネルが、昭和42(1967)年には、国道4号バイパスが開通するなど、急増する自動車交通に対し、道路網の整備が行われました。この様な交通情報の変化により、昭和46(1971)年には長年続いた路面電車が廃止されました。

昭和56(1981)年に福島大学が福島市内から松川に移転し、昭和57(1982)年に東北新幹線が開通、昭和63(1988)年には丸森線が阿武隈急行として開通しました。

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