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更新日:2017年3月1日

福島事件と河野広中

明治14(1881)年になると自由民権運動が全国に広がり、民権運動家の河野広中らは福島町で自由党福島部を作りました。翌明治15(1882)年、福島県令(けんれい)(今の知事)になった三島通庸は、厳しく自由民権運動を弾圧し、県議会を無視する態度をとったため、県会議長であった河野と激しく対立しました。県会にも出席しない県令に、河野たちは県令の出した議案は一切審議しないことを決定しました(議案毎号否決事件)。

三島県令は会津三方道路などの難工事に人夫(にんぷ)や人夫代金を強引に要求し、応じない農民の財産を差し押さえ公売処分にしたため、農民たちが裁判所に訴えようとして選んだ代表が捕らえられ、明治15(1882)年逮捕の理由を聞きに来た農民と警官が小競り合いの結果、農民4名が警官に捕らえられました(喜多方事件)。

三島県令はこれを民権運動家を捕らえる良い機会とし、無名館(むめいかん)で河野ら自由党幹部25名を逮捕しました(福島事件)。

さらに県内各地で、自由党員と協力者200名以上を捕らえ、58名が東京に送られ、河野ら7名が有罪となりました。

客自軒と自由民権運動

客自軒(かくじけん)は自由民権運動の活動場所として利用されました。現在は福島市民家園に移築復原されています。

福島市民家園
-所在地福島市上名倉-

福島市民家園(JPG:214KB)

三島通庸(みしまみちつね)

官僚、政治家、子爵、鹿児島藩士、戊辰戦争従軍、山形、福島、栃木などの県令を歴任。各地で道路の開発や庁舎、学校などの都市計画を推進。反面、強引なやり方で住民・県議会と対立し、鬼県令・土木県令などと言われました。

河野広中(こうのひろなか)

政党政治家、自由民権動家。三春藩の郷士生まれ。自由民権運動の指導者として活躍。福島県会議長の時、福島事件で入獄。のち衆議院議長や農商務相を務めました。
阿武隈川に面した県庁の東側に、河野広中の銅像があります。

河野広中
-所在地福島市杉妻町-
(県庁周辺)

河野広中(JPG:182KB)

 

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