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更新日:2021年2月10日
なぜ多くの竪穴住居は、焼き壊されなければならなかったのか?
宮畑遺跡の焼失住居(しょうしつじゅうきょ)は、当時の生活面である床面に焼土が厚く堆積する特徴がある。この焼土は、火事の際に屋根の土が焼け落ちたもので、土屋根構造であったと考えられる。
焼いた痕跡
20号住居跡の半分の床には、焼土が最大で42センチメートルの厚さで堆積し、中には25センチメートル前後の大きなブロックも確認され、レンガのように非常に硬い。床面は赤く焼けて硬くなっており、床面上に燃料となる材を置いて火をつけ、住居を燃焼させたのである。
49号住居跡は床全面に焼土が堆積し、焼土は粒状から、大きいものでは20センチメートル程度のブロックが存在する。焼土の厚さは最大で35センチメートルである。柱と柱の間の床で焼けた痕跡が確認され、20号住居跡同様に床に燃料を置いて燃焼させている。
宮畑遺跡で復元した土屋根の竪穴住居
20号住居跡(左側に焼土が堆積している)
20号住居跡の焼土堆積状況(焼土の下が焼けている)
49号住居跡(全面に焼土が堆積している)
49号住居跡の床面(柱と柱の間が焼けている)
縄文時代中期の竪穴住居で調査を実施した46棟のうち、22棟が焼かれており、その比率は47.82パーセントとなっている。
この焼失住居は、土器形式では古い時期の大木(だいぎ)9式と新しい時期の大木10式のいずれの竪穴住居でも確認され、大木9式期が5棟中3棟(60パーセント)、大木10式期27棟11棟(40.74パーセント)で、22棟の焼失住居は、同じ時期に燃えたものではない。焼く家と焼かない家が長期間にわたり存在している。
全国では
資料によると、縄文時代の火災住居は、中部高地や東京都などの例では10パーセントを超えることはないという。
福島県内でも、大木10式の竪穴住居を100棟以上確認した上納豆内遺跡(かみなっとううちいせき、福島県郡山市)、和台遺跡(わだいいせき、福島市飯野町)では、焼失した住居は認められない。
県内の縄文時代中期の集落においては、焼失住居の存在自体がまれなのである。
宮畑遺跡の焼失住居が40パーセントを超える値は、県内はもとより全国的にも異常といえる比率で、これまでのところ、これほど高率の焼失住居の数を確認した遺跡は存在しない。
和台遺跡全景
和台遺跡の竪穴住居
それでは、土屋根の住居は燃えやすいのだろうか?
御所野遺跡(ごしょのいせき、岩手県一戸町)では、平成10年に土屋根の竪穴住居の焼失実験が行われたが、土屋根の住居は、密閉性が高いため酸欠状態になりやすく、湿度も高いために燃えにくいことが実証されている。
また、屋根上に土があるために、飛び火などにより燃えることも考えられず、土屋根構造の住居を燃やすためには、意図的な行為がなくてはならないのである。
また、土屋根では、燃焼すると屋根上の土も同時に落下し、屋根に用いられた木材が燃焼しきることはないようである。
しかし、宮畑遺跡では、土屋根にもかかわらず、屋根に用いられた木材は細かな炭となっており、屋根土が落ちる前に燃焼により燃え尽きてしまったとしか考えられない。
燃えにくい土屋根の竪穴住居を燃やし尽くしているのである。
宮畑遺跡49号住居炭化物検出状況
宮畑遺跡49号住居炭化物検出状況
(細かな炭が確認されている)
麦地石遺跡(ばくちいしいせき、福島市松川町)の平安時代の焼失住居
(屋根や柱が大きな炭になっている)
中部高地では、集落内で大型の住居が放火さていることから、特別な住居が放火されている可能性が指摘されている。
宮畑遺跡の焼失住居では、住居規模・出土遺物において、焼かれた住居と焼かれていない住居で違いを見出すことはできず、住居廃絶に伴う特別な行為は確認されていない。
また、焼かれた住居は一時期の集中的な火事によるものでなく、集落の存続期間中で継続して存在しており、縄文中期のむらの風習といえるものである。
縄文時代中期の宮畑縄文むらに定着した、福島市内の同じ時期の縄文集落を含めて、先刻的にも他に例をみない独自の風習といわざるをえない。
燃えにくいにもかかわらず数多く焼かれた土屋根の竪穴住居は、現時点での考古学的な成果からはその謎を解決できない人間のドラマなのである。
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