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更新日:2021年10月12日
江戸時代の福島城下町は、貞享3(1686)年に山形から移封された堀田正仲から町割りを整え、元禄15(1702)年に板倉重寛が福島三万石に就封された頃から、奥州街道を基準に本格的に町の整備が行われました。
奥州街道は、須川を渡ると福島城下南端の江戸口枡形(1)を通り、柳町・荒町・中町・本町と北上します。奥州街道(1)~(4)の西側を平行するように寺道が設けられ、大森から移転してきた常光寺(2)・誓願寺(3)をはじめ真浄院・康善寺・大円寺・常福寺・東安寺と並び城の防御を担うよう寺が配地されています。
本陣・脇本陣(4)のあった本町から右に折れると旧家が立ち並ぶ上町に入ります。なかでも、庭坂口(8)東側の(9)金沢弥五兵衛と東隣の安斎一朗右衛門家などは、本多十五万石時代の延宝年間から幕末まで町年寄役・割元役を勤めた家柄でした。そこを過ぎると御城下高札場(15)に突き当たります。
馬喰町西側には馬場(12)があり馬競りが行われ町が賑わいました。そのため北南町から馬喰町にかけ旅籠屋を営む者もでてきました。
城下に住む人の多くは、商人や、大工・桶屋・左官・畳さし等の職人で、農業を行いながら生活をしていました。
このように福島の城下町は城を取り囲む様に形成されていきました。
※柳町付近の町割りは、柳町高野家蔵の元禄4(1691)年の地図、中町・本町・上町の町割りは御倉町安齋家蔵の宝永2(1752)年の地図、馬喰町の町割りは豊田町信夫家蔵の宝永正徳ヵを参考に合成。
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