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更新日:2017年3月1日
11世紀終わり~12世紀にかけて陸奥国(むつのくに)を支配した豪族(ごうぞく)は奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。この一族であり家臣の佐藤氏は信頼も厚く、信夫庄(しのぶのしょう)の郡司(ぐんじ)・大庄司(おおしょうじ)(荘園管理(しょうえんかんり))を任されました。
佐藤一族の中で最も有名なのは、源義経(みなもとのよしつね)の従者であった佐藤継信(さとうつぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟でしょう。兄弟は義経に従い、平氏を倒すべく奮闘します。しかし継信は屋島(やしま)の戦いで義経をかばい戦死してしまいました。平家滅亡後、源頼朝(みなもとのよりとも)と義経は対立し、忠信・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)らとともに敗走。忠信は義経を逃がし、自分は京都に身を潜めるも敵に見つかり自害しました。
その後、義経を匿(かくま)った奥州藤原氏は秀衡(ひでひら)の死後方向転換、義経は自殺に追い込まれました。
弱体化した藤原氏は頼朝の攻撃の対象となり、文治(ぶんじ)5(1189)年、頼朝は藤原氏を倒すために鎌倉を出発。信夫庄司で佐藤兄弟の父・佐藤基治(さとうもとはる)は石那坂(いしなざか)で頼朝軍の常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の息子らを迎え撃ちますが惨敗(ざんぱい)してしまいます(石那坂の合戦)。その後、戦いは阿津賀志山(あつかしやま)(国見(くにみ)町)へと及びました。そして藤原氏は滅亡、東北も頼朝の支配下となりますが、佐藤氏は各地で生き延び、後世も多くの人物が活躍しました。
石那坂古戦場跡
-所在地 福島市平石-
(JPG:160KB)
戦いの地と呼ばれ、ここで佐藤一族の多くが討ち死にしました。
保元(ほうげん)2(1157)年、藤原秀衡の命で佐藤基治が築いた城で、16世紀まで存続しました。守護神の鶴から「大鳥城(おおとりじょう)」と呼ばれました。
大鳥城跡
-所在地 福島市飯坂町-
佐藤一族の菩提寺で、有名な佐藤基治・乙和(おとわ)夫婦の墓碑、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔(県指定重要文化財「医王寺の石造供養石塔群」)があります。
医王寺
-所在地 福島市飯坂町-
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