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更新日:2017年3月1日

合戦の舞台 信夫山

信夫山は、福島盆地の中央に位置する周囲約7kmの四季折々に美しい山です。中央に羽黒山(はぐろさん)(標高260m)、西に羽山(はやま)(標高275m)、東に熊野山(くまのさん)(標高268m)、さらにその北に立石山(たていしやま)(標高220m)などの峰から成り立っており、昔から山岳信仰の地として知られ、各山頂には信仰対象の神仏が祀(まつ)られています。

福島盆地は、1000万年前までは海底にありました。500万年前から奥羽山脈の隆起(りゅうき)と火山活動が活発となり、信夫山付近はマグマが貫入して非常に硬い岩石になりました。さらに50万年前頃に隆起した盆地は吾妻山麓から国見にかけた断層線に沿って陥没しました。やがて氾濫原や沼地となり、その後、扇状地(せんじょうち)となりました。信夫山は非常に硬い岩石や粘土質のため、侵食・風化にたえ、福島盆地に孤立丘として残されました。現在の信夫山は砂礫(されき)で120mほど埋まっていると考えられます。

信夫山の伝説は数多くありますが、記録では、天安(てんあん)元(857)年慈覚大師が寂光寺(じゃっこうじ)を開き、康平7(1064)年に信夫庄佐藤基治が七曲坂(ななまがりざか)を開いた時にはすでに羽黒神社、黒沼神社があったことがわかります。

慶長(けいちょう)5(1600)年松川の合戦で黒沼神社付近は伊達政宗の本陣となり、寂光寺の僧兵も上杉軍と戦い、敗れた政宗とともに仙台へ逃れ、焼けた寂光寺は青葉山寂光寺として再現されました。元禄(げんろく)時代には、岩谷観音磨崖仏が彫られ始めました。
また信夫山は、江戸時代前から金鉱山として有名で、羽山の金竜抗などがありました。

そして、太平洋戦争末期に羽山西側に中島飛行機エンジン組立の地下工場が切削がされましたが、完成前に終戦を迎えました。

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