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更新日:2017年3月1日

中世のふくしま

福島の中世は、佐藤氏の支配から離れ伊達氏の影響を受けながら、各国人(こくじん)・戦国大名が自立していった時代といえます。源頼朝の奥州攻めの結果、伊達地方は、佐藤一族が治めていた藤原氏の荘園に代わり、国人たちが直接領地を治める体制となりました。その中でも奥州攻めに功績があり伊達郡を与えられた伊達氏が勢力を伸ばしていきました。鎌倉時代の伊達氏は伊達郡の総領として、一族・庶子に所領を支配させ全体を指揮しまとめました。信夫庄は佐藤氏と二階堂(にかいどう)氏が所領を持っていました。また伊達郡では、永仁5(1297)年、伊達一族の桑折(こおり)氏の身内に領地をめぐる争いがありました。

元弘(げんこう)3(1333)年、鎌倉幕府が滅び建武政権になった頃、後醍醐天皇は北畠顕家(南朝)を陸奥守に任じて多賀城に派遣し、顕家は新政府の役人として北条(ほうじょう)氏の臣下であった伊達氏、結城(ゆうき)氏、二階堂氏ら奥州武士を登用しました。しかし建武政権が2年で滅ぶと、建武(けんむ)2(1335)年足利尊氏(北朝)は反旗をひるがえし、京を攻めました。これに対し顕家は、奥州の軍勢を率いて京に上り尊氏を九州へ追い出しました。その後、北朝側も奥州で勢力を強め、顕家は国府を霊山城(伊達市)に移し、再び上洛し和泉国(大阪府)で戦死しました。

この間信達地方の国人たちは、南朝(伊達氏など)と北朝(佐藤氏など)に分かれて戦いました。特に佐藤清親は尊氏に忠誠を誓い、畿内(きない)に参戦し信夫(しのぶ)に戻らず、伊勢(いせ)佐藤家となりました。この戦いは、県内のほとんどの武士が北朝側となり、尊氏の勝利により終焉(しゅうえん)しました。

室町(むろまち)幕府になり、信達地方は鎌倉府の支配を受けましたが、国人たちは従わずたびたび反抗(国人(こくじん)一揆)しました。鎌倉府の稲村公方(くぼう)、篠川公方が南奥羽に乗り込み、伊達氏や白河氏に郡や庄を献上するように強要したので、怒った伊達政宗(大膳(だいぜん)政宗)は、応永7(1400)年に反乱を起こします。この乱は背後で室町幕府が糸を引いていたのです。

応永9(1402)年争いは最高潮に達し、討伐軍7000余騎と赤館(あかだて)(桑折町)で奮戦した政宗は敗れてしまいました。しかし、稲村公方は、南奥羽の国人を支配できず、鎌倉に帰ります。後に室町幕府側の京都扶持(ふじ)衆と呼ばれた国人(伊達(だて)、蘆名(あしな)、白河(しらかわ)、岩城(いわき)、相馬など)は、ますます鎌倉府から遠ざかり、京都や鎌倉からの影響の少ない国人の合従連衡(がっしょうれんこう)の時代となり、各地に自立した権力が出現します。

応永20(1413)年、伊達持宗(だてもちむね)(松犬丸)は懸田定勝と共謀し、約600騎を率いて、大仏城(現福島県庁)に立てこもりましたが、鎌倉府が遣わした二本松城主畠山国詮(くにあき)に破れました。その後、持宗は許され当主として活躍します。これは足利氏と伊達氏が緊密な関係にあったためといえます。南奥羽における伊達氏の力はますます強大になっていきます。

伊達氏の内輪もめから起こった天文(てんぶん)の乱(らん)は、南奥羽を二分する戦いとなりました。また、戦国時代末期には伊達政宗の仙道(せんどう)侵攻があり、信達地方は一時政宗の領地となりましたが、豊臣秀吉の奥羽仕置により蒲生(がもう)氏が領主となり、その後上杉(うえすぎ)氏へと代わりました。

大森城跡
大森城跡(JPG:278KB)

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