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更新日:2017年3月1日

近世のふくしま

ふくしまの近世は、まさに「福島」の地名の誕生とともに始まりました。豊臣秀吉は、天正18(1590)年7月奥羽(おうう)の諸大名に対する仕置(しおき)と、太閤検地をするために会津に向かいました。

その際小田原(おだわら)攻めに遅参した伊達政宗に返上させた信達地方と会津(あいづ)を蒲生氏郷に与えました。

このとき、会津の支城(しじょう)・信夫(しのぶ)5万石の大森城主となったのが客将(かくしょう)木村吉清でした。吉清はその後、大森城から杉目城へ城・町の機能を全て移し、杉目城を福島城と改名しました。

慶長3(1598)年に福島の地は上杉景勝の支配下となりました。この支配は上杉氏が米沢に移った後も続くこととなります。この時期、伊達政宗は自分の旧領である福島を攻め取ろうと考え、繰り返し侵攻を行いました。その最たるものが信夫山の山裾(やますそ)で繰り広げられた「松川の合戦」でした。

上杉氏の支配が終わった延宝7(1679)年、初めて福島の地に「藩」が置かれることになります。

寛文4(1664)年に上杉氏の支配が終わり、一時幕領(幕府直轄領)となりましたが、延宝7(1679)年に本多忠国が福島城主となり福島藩が成立しました。その後、天和2(1682)年に本多氏が姫路に移って再び幕領となり、貞享3年堀田正仲が10万石で入部しましたが、元禄13(1700)年に山形に転封となり、元禄15年板倉重寛が福島に入り、福島藩3万石が成立し、その支配は幕末まで167年に及びました。

福島藩は戊辰戦争で降伏した後、明治2(1869)年1月に領地のうち、信夫郡(福島市)と上総国山辺郡(千葉県東金)が取り上げられ、会津大沼郡の90か村が賜れましたが、3月、板倉氏の故郷である三河国重原(愛知県)に移り、その歴史の幕を閉じました。

庶民の生活をのぞいてみましょう。江戸時代の福島は養蚕(ようさん)・製糸業で大変栄えました。信達地方はもともと蚕や桑を育てるのに適した場所でした。貞享2(1685)年に幕府が中国からの生糸の輸入を制限すると京都西陣では生糸が不足し、これを契機に信達地方の生糸の需要が高まり、「登(のぼ)せ糸」として西陣へ運ばれました。

福島城下は、奥州街道沿いに南から柳(やなぎ)町・荒(あら)町・中(なか)町・本(もと)町・上(うわ)町・北南(きたみなみ)町・馬喰(ばくろう)町が町場を形成し、参勤交代で行き来する大名が本陣に泊まり、また生糸(きいと)や蚕種を購入するために全国から商人や伊勢参りなどで旅する庶民で賑わいました。

旅人が安全を祈願してわらじを足尾神社に奉納する習わしも行われるようになりました。年貢米を江戸で売却するため、阿武隈川舟運が利用されました。また舟運は商人荷物の運搬にも利用され、全国各地の織物や染め物・木綿・古着などが運ばれてきました。

全国的な流通の一方で、福島の武士や庶民の生活を支えたのは、「地廻(じまわ)り物」と呼ばれる地元の産物で、地元の産物が地元で取引・消費され円滑な経済活動が営まれていきました。このように江戸時代の福島は活気に満ちあふれていました。

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