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更新日:2017年3月1日
信夫庄佐藤氏一族の杉ノ目太郎信行(すぎのめたろうのぶゆき)の居館があったと伝えられています。
文治5(1189)年、常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)(伊達朝宗(だてともむね))が奥州攻めの手柄として源頼朝から伊達郡を領地として与えられ、以後、一族が住むようになりました。
城内の杉妻(すぎのめ)寺の大仏堂がまつられていたため、杉妻(すぎのめ)(杉目)城、または大仏城(だいぶつじょう)と呼ばれました。
到岸寺
-所在地 福島市大町-
到岸寺のご本尊・大日如来像は「大仏城(だいぶつじょう)」の呼び名の元である杉妻大仏の2世で、市指定有形文化財となっています。高さは2.35m市内最大の坐像(ざぞう)です。
紅葉山公園
-所在地 福島市杉妻町-
(県庁敷地内)
大仏城跡出土宝塔
(県指定重要文化財)県庁の東側に残る紅葉山公園(もみじやまこうえん)内にあるこの宝塔は、明治時代に現在の県庁西庁舎南の土塁(どるい)から発掘されました。弘安(こうあん)6(1283)年の銘が刻まれています。
伊達晴宗(だてはるむね)の時代には杉妻(杉目)城と呼ばれたことが家臣への手紙からわかっています。
※伊達政宗(だてまさむね)の祖父(伊達氏15代)
米沢藩の削封(領地を減らされること)により幕府直轄領(幕領)となりました。伊奈半左衛門忠勝(いなはんざえもんただかつ)・半十郎忠常(はんじゅうろうただつね)親子が6年、国領半兵衛(こくりょうはんべえ)が9年代官を務めました。
川の流れを利用して舟で荷物を運ぶ阿武隈川の舟運の歴史は、寛文4(1664)年に江戸商人渡辺友意(わたなべともい)が私財をなげうち、現福島市から宮城県伊具郡丸森町まで川ざらいを行ったのが始まりです。
寛文11(1671)年幕府に命じられた河村瑞賢(かわむらずいけん)が、江戸までの年貢米の輸送に使用する「東回り航路」の開発に成功すると福島の地は舟運を使い、江戸や各地域から商品で賑わいました。舟運は明治まで続き、その役割を終えました。
福島河岸
-所在地 福島市御倉町-
福島河岸は福島藩、米沢藩の御米倉(おこめくら)専用の船着場です。現在、御倉邸の川沿いに河岸が再現されています。
本多忠国(ほんだただくに)が奈良大和郡山(やまとこおりやま)より福島へ転封(幕府の命令で領地を変えること)され、福島藩が成立します。
福島城と城下町を桑折(こおり)町に移す計画を立てるも、姫路へ転封が決まり、計画は白紙になりました。
再び幕領となり、石見(いわみ)銀山の代官柘植伝兵衛宗政(つげでんべえむねまさ)が桑折村(現・桑折町)半田(はんだ)銀山開発のため代官に着任しました。
山形より堀田正仲(ほったまさなか)が転封され福島藩主となりました。相次ぐ国替えで財政が厳しく、領内で厳しい取り立てを行いました。この頃から本格的に福島城(特に二ノ丸御殿)普請((建設)が始まったようです。
天正18(1590)年豊臣秀吉の奥羽仕置により伊達氏の旧領を与えられ会津領主となった蒲生氏郷は、杉目城代を客将(領主の客扱いの家臣)木村吉清に任せました。
豊臣秀吉の奥羽仕置後の城主・木村吉清は伊達氏時代の城下町機能をすべて杉目城下へ移動させました。大森城は廃城となりましたが今も堅固な山城の姿を留めています。
大森城跡
-所在地 福島市大森-
南北朝時代は佐藤清親(きよちか)、戦国時代には伊達実元(だてさねもと)の居城となりました。
木村吉清が居城を大森城から杉目城へと移し「福島城」と改名しました。諸説ありますが、蒲生氏郷が、会津黒川城を会津若松城に改名したことにならったといわれます。
上杉景勝が越後春日山城から会津若松城に入り、福島城代に水原親憲(すいばらちかのり)、後に本庄繁長といずれも名将を福島の地に配しました。これは先祖伝来の領地・伊達地方を取り戻そうとする伊達政宗の侵入に備えた守りでした。
伊達政宗は慶長3(1598)年に福島に侵入。福島城代本庄繁長は、侵入を防ぐために城下町の外側全体に土塁や堀(側溝)を築きました。
外郭(がいかく)に寺院を配置し外敵の侵入を防ぐための配置が肌で感じることができるこの通り。
大円寺、常福寺は明治の「甚兵衛火事」で焼失しましたが、現在も城下町の名残を残す情緒豊かなエリアとなっています。
常光寺
-所在地 福島市清明町-
福島板倉家の菩提寺。桜や紅葉など四季折々を楽しめる古刹です。
堀田正虎が山形転封となり、福島はまた幕領となりました。
福島の代官は竹村惣左衛門(たけむらそうざえもん)が担当しました。
板倉重寛(いたくらしげひろ)が信濃国坂木(長野県坂城町)から福島に転封され、福島城主となります。以降12代167年間福島の地を治めることになりました。特に初代板倉重寛、二代重泰(しげやす)、三代勝里(かつさと)は城下町づくりに力をそそぎました。重寛は、大手門に時を知らせる太鼓櫓(たいこやぐら)、城内二ノ丸には御屋形(館)や庭園(現在の紅葉山公園内池付近)を整備しました。
慶応(けいおう)4・明治元(1868)年戊辰戦争により、9月2日に11代藩主板倉勝尚(いたくらかつひさ)が二本松の新政府軍に降伏。福島城を開城します。福島板倉氏とその家臣は明治2(1869)年愛知県重原(しげはら)へと移り板倉重原藩が成立。12代藩主だった板倉勝達(いたくらかつみち)が廃藩置県まで藩知事を務めました。後に堀や土塁は壊され、福島城二ノ丸跡を中心に福島県庁が建設されました。
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