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更新日:2017年3月1日

戊辰戦争とふくしま

慶応4(1868)年1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、本格的な幕府と新政府軍の戦い「戊辰戦争」の幕開けとなりました。

開戦を知らない6日、福島藩には会津藩の使者が訪問し、「徳川氏存亡の危機、徳川譜代の藩主は白河城へ集まり協議をおこなうので参加してほしい」と要請を行っていました。すぐに物頭(ものがしら)内藤豊次郎らを江戸へ送り真相の把握に乗り出しますが、15日には徳川慶喜追討の命が奥羽各藩に、仙台藩には朝廷から会津藩攻撃の命が下ります。

福島藩では江戸藩邸は旧幕府を支持、重原陣屋では新政府支持と意見が割れましたが、2月に家老の渋川教之助(しぶかわきょうのすけ)が上京し勤皇(きんのう)の意志を示しました。

3月藩主勝尚は入京を断念し、福島城へ入ります。そんな中、会津征討を目的とする奥羽鎮撫総督府が仙台に設置。23日には福島藩城内が会津征討の本陣に決定しました。

藩内の動揺

閏4月20日、福島で世良修蔵暗殺事件が起こり、これを契機に軍事局が福島に置かれ、ひそかに新政府軍を討つため5月3日奥羽列藩同盟、6日には奥羽越列藩同盟が結ばれます。福島藩は周辺の大藩に考慮し、勤皇から一変、同盟軍への参加を余儀なくされました。

戦争が激化する中、福島藩も白河城奪還の総攻撃に参加し、多くの戦死者を出します。6月下旬には棚倉・平城が陥落。この状況を見て、7月25日には、勝尚・勝顕ら一行は米沢へ移ることを決定。二本松総攻撃が迫った28日、城中評定が開かれ、今後の方針を「ひとまず開城し、藩主勝尚の指揮を仰ぐ」と決め、二本松落城を受けすぐ、城下を割元曳地宇右衛門に任せ、藩士一同は米沢街道を庭坂に向けて出立しました。

開城後の城下は、仙台藩細谷十太夫の配下「烏組(からすぐみ)」による暴動など一時騒然とするも、8月元幕府老中小笠原長行の指揮により治安が安定。9月、帰福した勝尚は降服を決断し、2日に二本松で謝罪状を提出。速やかに福島城の引渡しが行われ、勝尚らは常光寺(じょうこうじ)、家族は康善寺にて謹慎に入りました。藩の事務所は郡代名倉治部助宅に置かれ、ここに福島の戊辰戦争は終わりを告げました。

世良修蔵と戊辰戦争

奥羽鎮撫監督九条道孝は、副総監や参謀大山各之助、参謀下世良修蔵に会津追討を命じますが仙台藩はその意思が弱く、形だけの戦闘をしました。強行派の世良修蔵は、この様子を記した密書を大山へ送ろうとして仙台藩の姉羽武之進らに発見され、客自軒での厳しい詮議の後、阿武隈川で斬首されました。享年34歳でした。福島稲荷神社境内裏には、彼の供養碑が残っています。

福島稲荷神社
-所在地 福島市宮町-

福島稲荷神社(JPG:257KB)

代々の福島藩主によって守られた福島の総鎮守。歴代藩主が絵馬を奉納した絵馬殿は市内でもっとも古い建物です。

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略年表

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