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更新日:2017年3月1日

宿場町でつくられた土人形-根子町人形-

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東北地方は、我が国の土人形界の宝庫といわれています。その中心的存在は仙台の堤(つつみ)人形で、これに花巻人形と米沢の相良人形を加えて、東北の三大土人形とされています。このほか、山形・秋田・青森県の日本海側に沿っても土人形の産地があります。それらは北前船による京都・伏見人形の影響が多いとされるところですが、福島県のみが著名な土人形がないように思われてきました。しかし、産地が未確認のため、単に堤系とされた一群の土人形がありました。それが福島市清水町を産地とする「根子町人形」です。

一般に土人形は、瓦職人が集まった城下町や著名な社寺の門前近くで製作されるものが多いです。それが、そうした諸条件を持たない宿場町である清水町で作られました。堤人形の流れを汲む根子町人形が、堤人形に多い雛を中心に、添え雛ともいえる天神や唐子(からこ)などの子供物、また恵比寿や大黒などの縁起もののほか、江戸文化をそのまま移したような歌舞伎物や浮世絵風の世俗物などに個性的な腕を発揮できたのは、話題の飛び交った宿場町だったためと思われます。また、村の高台はすべて粘土だったことも幸いし、しかも粗悪な粘土を補強するためと思われる「素焼の上に和紙を張って描彩を施す」という独特の技術をも生み出して、他産地の作品と比べて軽い土人形を作り出し、旅人の恰好(かっこう)の土産物になったようです。

このように根子町人形は、土地の粘土を生かして宿場町に根をおろし、街道を行き来する人々によって育てられました。しかし、宿場の機能の減退と共に衰微し、明治期の「蚕神」を最後の光芒として廃絶に至ったのです。まさに根子町人形は、宿場の申し子ともいうべき宿命をたどった土人形といえるでしょう。

※清水町を貫通する奥州街道は、明治12年(1879)から伏拝坂の新道(のちの国道4号線)が開かれて、大きな利便性をもたらしましたが、明治20(1887)年に東北線が開通し宿駅の機能は縮小の一途をたどり、村全体が取り残されるようになりました。
明治22年の町村制施行により、村は杉目村大字清水町となり、根子町の愛称も人々から遠のき、根子町人形もいつしか幻に人形と言われるようになりました。

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福島市松山町39番地の1

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