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更新日:2017年3月1日
伏拝の坂を登りつめた台地に構えた清水町の集落は、奥州街道の間の宿(あいのしゅく)として設けられた宿駅で、当初の村名「根子町宿」の通り名で知られ、この宿駅で江戸時代後期から大正の初め頃まで、およそ120年間ほど作り続けられた仙台堤人形の流れを汲む土人形が「根子町人形」です。
そのはじまりについては、次のようなエピソードが伝えられています。「江戸時代末ごろ、仙台堤人形窯元の若い嫁が、舅の嫁いびりに堪えかね、同情する若い腕ききの工人と共に江戸を指して出奔(しゅっぽん)したが、途中清水町宿で女が急病となり、旅籠屋仙台屋に助けられました。逗留(とうりゅう)中人形師は、堤人形を造り店に並べました。それが評判となり、仙台屋の主人は二人のために屋敷内に工房を作り製作にのりだし、主人もその技を伝授されて自ら窯元となって製作したのに始まります。」
また、少なくとも文化・文政期には吉郎次という優れた工人がいたことを物語る傍証(ぼうしょう)物件があります。鎮守出雲神社の宝蔵に、文化11年(1814)作の「木彫大黒天像」と文政6年(1822)作の「絵馬・海版旭日飛鶴図」が奉納されていたのです。前者には「工彫高橋吉郎次」、後者には「仙台屋 工師 吉郎次」の墨書銘があって、彫刻もうまく、非凡な描写力を持つ工人の存在を示しています。これによって、根子町人形製作の上限は、文化年代まで遡り得ることになります。
【海波旭日飛鶴図(表)】
【海波旭日飛鶴図(裏)】
【木彫大黒天像】
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