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更新日:2023年11月20日
福島と米沢を結ぶ道路として、直轄高速方式(一般国道と同様に国土交通省が整備し、完成後は無料開放される高速道路)で整備された「東北中央自動車道」の福島大笹生IC~米沢北IC間が、平成29年11月4日に開通しました。
ここでは、栗子峠を通過し福島と米沢を結ぶ道路の建設の歴史として、「万世大路」の概要を説明します。
明治以前の福島から米沢間の往来は、米沢街道(板谷峠越え)が主でありました。しかし、道幅は狭く急勾配の連続で、しかも冬期間は積雪も多く、通行に支障をきたしていました。
明治・大正期
1876年(明治9年)、鶴岡・山形・置賜の三県合併で誕生した山形県の初代県令(現在の知事)である三島通庸(みしまみちつね)は、明神峠越えにかわる「栗子峠道」の新道計画を立案しました。同年11月には福島県と「新道開削山形・福島両県結約書」を締結し、内務省に申請し、12月には米沢郊外の苅安隧道(かりやすずいどう)の掘削、続いて栗子隧道(くりこずいどう)の工事にも着工しました。(注釈:隧道(ずいどう)とは、トンネルのことです)
1881年(明治14年)の開通式の際、参加した明治天皇により、「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」(万世の長きにわたってこの道路が人々の役に立つように)という願いを込めて「萬世大路」(現在は「万世大路」)と命名されました。また、万世大路の開通に伴い、沿道の大滝宿などの宿場や運送会社も栄えたと伝えられています。
しかし、1899年(明治32年)に奥羽本線が開通すると、鉄道利用者が増加し、それに伴い万世大路の利用者は徐々に減少していきました。ところが、大正時代後期になると日本にも自動車が普及し、自動車の利便性が認識され、万世大路の車道化の必要性が検討されるようになりました。
昭和期
そこで、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)にかけて、万世大路を自動車が通行できるようにするため、国の直轄でカーブや傾斜の緩和、隧道の拡幅などが行われました。3つの隧道のうち、苅安隧道は拡幅に余裕がないとの判断から、取り壊されて切り通しになりました。(注釈:「切り通し」とは、山や丘などを切り開いて通した道のことです)栗子隧道、二ツ小屋隧道は洞床掘り下げなどにより拡幅されましたが、この際、栗子隧道は、雪の吹込みを避けるために曲げられていた山形県側の坑口を掘り直し、直線としたため、山形県側には明治の坑口と昭和の坑口が2つ並ぶことになりました。また、橋梁も木橋からコンクリート橋や鋼橋に架け替えられました。
自動車の通行が可能になったものの、屈曲が多く急勾配の連続であることや、未舗装で深い山中にあるため冬季5ヵ月間は2mを越す積雪により冬季閉鎖するという道であり、増加する交通量に対応できなくなりつつありました。1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)にかけて、長大トンネルによって通年通行できる「一般国道13号(栗子ハイウェイ)」の建設などの改良事業が行われました。そして「栗子ハイウェイ」完成に伴い、万世大路は廃道となり、1972年(昭和47年)頃の落盤により栗子隧道は通行不能となっています。
現在
一般国道13号(栗子ハイウェイ)も、連続雨量が180ミリメートルを超えた場合や降雪時に概ね風速毎秒16メートルで吹雪により視界が阻害される場合などには通行止めとなります。そこで、1998年(平成10年)から一般国道13号に平行するように東北中央自動車道の工事が進められました。東北中央自動車道開通後は、栗子峠の部分は全長約9キロメートルの「栗子トンネル」により、大雨や風雪による通行止めなどの交通障害が解消され、冬期間も安定した交通機能が確保されました。「万世大路」から「栗子ハイウエイ」に引き継がれたその役割は「東北中央自動車道」へと引き継がれました。
万世大路(自:福島県福島市上町 至:山形県米沢市相生町)が平成24年度土木学会選奨土木遺産に認定される
※「大会報告書」等の資料について
本ページの記事等の作成にあたりましては、下記のホームページ等を参考・引用させていただきました。
どのホームページにも、参考となる記事や資料が掲載されていますので、万世大路に興味のある方は是非ご覧下さい。
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