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更新日:2017年3月1日

写真資料

第百七国立銀行銅版画

第六国立銀行に次いで、明治11年10月15日吉野周太郎(写真)らにより資本金10万円で開業。株主は福島町周辺の豪農が多い。銅版画は甚兵衛火事以降に十丁目通五ノ五番地(明治40年:福島市大字大町32番地)に移転した建物である。

第百七国立銀行銅版画(JPG:657KB)
明治22年「大日本博覧会絵」より

吉野周太郎

福島市八島田に大邸宅をかまえ、東北の「八島田御殿」「吉野大尽」といわれた財閥吉野家の10代目。白河市の伊藤家に生まれ、第百七銀行の大株主先代周太郎の長女に入婿した。先代の築いた財力をバックに、福島銀行・岩代銀行・第百七銀行・福島羽二重・福島電灯・台東精糖など30余の事業所の重役として才腕をふるった。

大正14年(1925)には多額納税者として、貴族院議員になり国政に参与。大正末期から昭和初期にかけての金融大恐慌により昭和3年(1928)第百七銀行は一時休業に追い込まれた。(「福島県民百科」より作成)

吉野周太郎(JPG:41KB)
明治4(1871)~昭和12(1937)年

第百七国立銀行と五圓紙幣

第百七国立銀行発行の五圓紙幣(JPG:129KB)
明治11年7月発行の兌換紙幣(五圓紙幣)

第百七国立銀行(JPG:253KB)
第百七国立銀行 明治41年「福島繁昌記」より

第百七国立銀行は、明治30年2月に株式会社第百七銀行と改称した。

新築された第百七銀行本店

大正13年6月30日竣功。右は客溜と営業室。旧本店の道路を挟んで西側に新築。現在の東邦銀行本店の場所。昭和9年第百七銀行は解散し、のち昭和10年日本興業銀行東北支店が入る。そののち、昭和26年東邦銀行本店が移転する。

新築された第百七銀行本店1(JPG:339KB)

新築された第百七銀行本店2(JPG:86KB)

「第百七銀行史」より

安田銀行福島支店

明治16年2月第六国立銀行の敷地建物を借り受けて福島出張所を開設。その後明治18年に福島支店となる。福島進出は「安田銀行は三井、三菱等先進諸銀行との対抗上、発展の基盤を当時未開拓の東北の地に求めた」(「福島県銀行史」)といわれる。

安田銀行福島支店(JPG:72KB)
明治41年「福島繁昌記」より

福島県農工銀行

福島県農工銀行は農工銀行法により明治31年6月開業した。当初は現日本銀行福島支店敷地にあったが、現みずほ銀行敷地に移転した。本格的洋風銀行建築として大正2年完成した店舗の工事中と昭和6年当時の写真である。設計には辰野金吾(東京駅を設計した建築家)が関わり、日本銀行福島支店建設と同時に進行した。

昭和19年日本勧業銀行福島支店となり、惜しまれつつ昭和48年解体された。

福島県農工銀行1(JPG:101KB)
大正2年完成店舗の工事中の写真

福島県農工銀行2(JPG:69KB)
昭和6年当時の写真

日本銀行福島出張所

東北地方で最初に認可され、明治32年7月15日開設された。現日本銀行福島支店の敷地で、建物は蚕物商「万国屋」を改造したものである。

日本銀行福島出張所(JPG:94KB)
明治32年7月の写真

日本銀行福島出張所の内部

開業当初の写真。カウンターや窓口など内部は完全改装を施したことがわかる。職員も襟を正して構えているが、客がまた、いずれも洋服姿なのも珍しい。

日本銀行福島出張所の内部(JPG:271KB)
「写真集明治・大正・昭和 福島」より

日本銀行福島支店

明治44年に福島出張所が福島支店に昇格したのを機に改築が進められ、大正2年に洋風の建物が完成した。設計には辰野金吾が関わる。昭和53年改築のため惜しまれながら解体された。

日本銀行福島支店(JPG:616KB)
「ふくしまの歴史」4より

なつかしい軽便が走る日本銀行福島支店前

大正であることはまちがいない。角長商店も改築されており、あるいは大正前期かも。人影もまばらな昼下がりの一時といった表情である。

なつかしい軽便が走る日本銀行福島支店前(JPG:307KB)
「写真集明治・大正・昭和 福島」より

福島商業銀行

福島商業銀行は、共同荷造所に近い場所に明治29年8月に開業した。共同荷造所との関係も深く、生糸取引への資金を提供する銀行として設立された。

福島商業銀行(JPG:137KB)
明治41年「福島繁昌記」より

秋田銀行福島支店

日銀福島支店の東小路をはさんで大町角に秋田銀行福島支店があるが、昭和6年開業当時の外観がこれである。重厚な土蔵造りで一見して商家風とわかるように、ここは江戸初期から代々町年寄を勤めてきた加賀屋の総本家、金沢弥五兵衛宅であった。

秋田銀行福島支店(JPG:54KB)
「写真集明治・大正・昭和 福島」より

共同生糸荷造所

信達地方の製糸業は依然として個々の養蚕農家が自家で糸をとる座繰製糸が中心で進められた。機械製糸が未発達なのに対し、座繰の良質な製糸が需要者側には好評だったためである。しかし、座繰製糸には糸の長さと細さが不揃いになる欠点があった。これを揃えて揚返し荷造する福島共同荷造所が、生糸問屋達の手によって設立されたのは、明治22年である。場所は大町、現日銀支店前の小路(初音小路といった)を南へ行った馬場丁よりで半分ほどは今の平和通りにかかる敷地である。(「写真集明治・大正・昭和 福島」より)

共同生糸荷造所(JPG:244KB)
明治41年「福島繁昌記」より

共同荷造所の初荷風景

正月二日の初荷には、暮れから準備した糸荷を馬車に積み、にぎにぎしく幟りを立てて出荷した。(「写真集明治・大正・昭和 福島」より)

共同荷造所の初荷風景(JPG:70KB)
明治33年絵はがきより

作業風景

荷造仕上げ場の作業風景(JPG:73KB)
荷造仕上げ場の作業風景 共同荷造所
明治4年「福島繁昌記」より

糸の細さ(デニール)の検査様子(JPG:81KB)
糸の細さ(デニール)の検査様子 共同荷造所
明治30年代と考えられる
「写真集明治・大正・昭和 福島」より

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市民・文化スポーツ部 文化スポーツ振興室 文化振興課 郷土史料室

福島市松山町39番地の1

電話番号:024-563-7858

ファクス:024-563-7858

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